スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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ニイハウ島事件

毎年この時期になると思い出す、歴史上の出来事があります。
太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の陰であったことです。
今回はそのことを書きます。

 

 

 

真珠湾攻撃とは、1941年12月8日(現地は7日)に日本海軍(空母の艦載機と特殊潜航艇)がハワイの真珠湾パールハーバー)に停泊しているアメリカ海軍の艦船や、周辺の基地施設を奇襲攻撃した出来事のことです。
アメリカ側は3,477名の死傷者が出て、日本側では撃墜された航空機の搭乗員54名と、特殊潜航艇の乗員に犠牲者が出ました。

(特殊潜航艇の乗員の一人は生き残って初めての捕虜になった)

映画などになったので、知名度の高い戦史といえるでしょう。

(ディズニーの映画『パールハーバー』には間違いが多いので要注意)

ただ、ニイハウ島での事件で亡くなった日本人を知る人はあまりいないようです。

 

 

 

空母飛龍から発艦した零式艦上戦闘機パイロットの一人、西開地重徳(にしかいち しげのり)一飛曹は、真珠湾での戦闘中に被弾し飛龍への帰投を諦め、事前に不時着地として指定されていたニイハウ島に不時着しました。

飛龍

西開地重徳

 

ニイハウ島はハワイ諸島の最西端にある個人所有の島で、日本海軍では、

・着陸しやすい平坦な土地があること

・救助にあたる潜水艦が近づきやすい地形であること

・ネイティブなハワイ人しかいないこと

から、もし不時着するならニイハウ島と指示を出していたのです。

ハワイ諸島

ニイハウ島は19世紀にスコットランド人のエリザベス・シンクレアがカメハメハ五世から買っていて、今もその末裔が所有しています。
島民のほとんどはネイティブなハワイ人で(約20人)、それ以外はシンクレアの子孫であるロビンソン一家に仕える日系人(3人)がいる程度です。
ロビンソン一家はカウアイ島に居住し、当時は週に一回船でニイハウ島に来ていました。
ニイハウ島には電気も電話もなく、島民のほとんどはハワイ語(カナカ語)しか話せませんでした。

(現在もニイハウ島への上陸は厳しく制限されている)

 

 

 

西開地が不時着して気絶している間に、島民のハウリア・カレオハノ達が来て西開地の拳銃や書類(飛行暗号表や地図など)を奪います。
島民は真珠湾攻撃のことをまだ知りませんでしたが、カレオハノは日米が険悪な状態にあることは知っていました。
西開地は日本語とカタコトの英語しか話せず、島民とのコミュニケーションはほとんど取れず、書類を返すように色々試すが膠着状態に。
西開地にしてみれば、日本軍の書類がアメリカ軍に渡ることはあってはならないことだったのでしょう。

 

そこへニイハウ島の管理人だった日系人原田義雄がやってきます。

(先に日系人のシンタニ・イシマツが来て西開地と会話したという説もある)

原田は西開地の話を聞き、島民に書類を返すように言いましたが、拒否されてしまいます。
西開地は一旦は客人として歓迎され手当を受けたものの、夜になると島民はラジオで真珠湾攻撃のことを知り、西開地を小屋に監禁。

(原田は通訳として西開地と一緒にいた)

次の日にロビンソンが島へ来る予定だったので、一緒にカウアイ島へ連れて行ってもらうことにしました。
ところが、真珠湾攻撃の影響でニイハウ島への渡航は禁止されてしまい、ロビンソンは島へは来られなくなります。
島民は渡航禁止令を知らず、電話もないので事情がわからず、不安の中数日が経ちました。

 

焦る西開地は原田とその妻を味方につけ、監視役を襲撃して倉庫に閉じ込め、西開地は自分の拳銃を取り戻し、原田は自分の散弾銃を持ってカレオハノの家に向かいます。
武装した西開地達を離れた場所から見たカレオハノは西開地の書類を家族に預け、ロビンソンに連絡するために仲間数人と手漕ぎのボートで島を離れます。
閉じ込められていた監視役は脱出し、島民に避難するよう伝え、ほとんどの島民は洞窟などに避難しました。
一部の島民はランタンなどを使い島へ合図を送り、ロビンソンはそれを見て何かが起こったことを知ったものの、島への渡航は許されませんでした。

 

書類を見つけられない西開地達は、不時着したゼロ戦とカレオハノの家に火をつけます。

零式艦上戦闘機の残骸

そして翌朝、逃げ遅れた島民の夫婦を捕らえ、その妻を人質にして夫にカレオハノを探すように命令しました。
しかし西開地達が疲労困憊していることがわかった夫婦は、チャンスを伺い西開地を襲撃、夫は原田の散弾銃で撃たれながらも妻と協力して西開地を殺害。
それを見た原田は絶望し、散弾銃で自殺。
こうして事件は終わったのです。

(原田の妻は逮捕され、有罪となり収監されました)

 

 

 

この事件の詳細については別の説もあって、それは「放火した後西開地は森へ入って拳銃で自殺した」という説です。
事件の経緯については裁判で明らかにされたのですが、最初の説のことを「島民の大活躍によって日本軍を撃退した」と盛った話にすることで国からのご褒美を狙ったと主張する者もいたのです。

 

この、日本人にはあまり知られていない事件は、大きな影響を残します。
それは、アメリカ国籍を持った日系人、普段は日本の味方なんてしない、アメリカを批判するようなことも言わない人が、簡単に日本人の味方として行動してしまった点です。
日系アメリカ人の強制収容所を作る計画は、この事件により後押しされたと主張する者もいるのです。

 

事件の後で調査のためにニイハウ島を訪れた調査官は、ゼロ戦の残骸の近くで木札のようなものを数枚回収しました。
調査官の死後(1990年代)、遺族は木札をフォード島の太平洋航空博物館へ寄贈。
2017年に博物館の館長が西開地の弟の元を訪れ、木札を返還しました。
複数の名前などが書かれたこの木札、どういうものか、誰の名前なのかは判明していないそうです。
これは「飛龍に残ることになった仲間が西開地に託した名札ではないか?」 という説もあります。

 

上述の太平洋航空博物館には、西開地の零式艦上戦闘機の残骸が、ニイハウ島事件のことを説明するボードと共に展示されているそうです。

太平洋航空博物館

日本から遠く離れた太平洋上の島で亡くなった日本兵のことだけでも、戦争の悲しさを思わずにはいられません。
そして今でも、ウクライナでは戦争をしているのです。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。