スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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松本零士さんのこと

松本零士さんが亡くなりました。
私は直撃世代でした。
今回はその辺りの話を書きます。

 

 

 

私の「初松本零士」は、『男おいどん』でした。
兄が読んでいたマンガ雑誌に掲載されていて、よく借りて読んだものです。
ただ幼い私からしたら、あのウネウネ線はあまり心地よいものではなく、貧乏な下宿暮らしとかも馴染めませんでしたがね。

 

私が小学校高学年のときに、『宇宙戦艦ヤマト』の放送が始まりました。
ただ当時はクラスの誰も見ていなくて、裏番組の話題ばかりでしたから、私も本放送は見なかったのです。
それが口コミで評判が伝わってきて、再放送を見てどハマリ。
ネットのない、アニメ誌も創刊されたばかりの頃に、口コミで評判が広まるというのは凄いことです。

 

「ヤマトブーム」の凄かったところは、クラスの全員がファンだったことです。
まだ「アニメ」という言葉は一般的ではなく、テレビマンガは子供が見るものだったし、SFアニメなんてマイナーな存在だったのに、です。
クラスの女子もみんなファンで、キャラや声優のことをよく話してました。
私は多少絵が描けたから、ヤマトの絵なんて描いてあげると喜んでましたね。
そういう風に、アニメファンという括りよりも大きな広がりを見せていたのが、今考えると不思議な感じがします。

 

この後、1980年の『地球へ…』くらいまでは、クラスの女子がアニメ映画の話をしていた記憶があります。
その翌年の『機動戦士ガンダム』になると、女子はほとんど見ていなかったみたいです。
この辺りがアニメの流れが変わったポイントなのかもしれません。

 

 

 

ヤマトファンを困らせたのは、見て楽しむ材料が少なかったことです。
ビデオデッキはまだなくて、サントラは結構みんな買ってましたが、映像を自由に見ることができない時代でした。
それでテレビで再放送されるときに、テレビの前にラジカセを置いて音声だけ録音する人が結構いたのです。
多少知識がある人は、イヤフォンジャックとラジカセをケーブルで接続して録音しましたが、そうでない人はラジカセ本体のマイクで録音しようとしたんですね。
だから事情を知らない家族の声なんて入ってしまったりして。
でもそのカセットテープから、セリフを全部書き出すような熱心なファンもいたのです。
コミカライズされたものはみんな持っていて、あと熱心なファンは「ロマンアルバム」を通販で取り寄せたりしてました。

 

こういうニーズがあるのに商品が出てこない状況はこの後もしばらく続きます。
『ヤマト』に関してはプラモデルがあったのですけど、これはかなり出来が悪くて買う気にはなりませんでした。
あとニッポン放送の深夜に二時間枠で『ヤマト』のラジオドラマをやったことがあります。
テレビアニメそのものの声優・劇伴・SEを使ったもので、映画を見ているような臨場感がありました。

 

 

 

「ヤマトブーム」とほぼ同時に、「松本零士ブーム」が来ました。
みんなせっせとコミックを買って、仲間内で回し読みもしてました。

男おいどん
宇宙戦艦ヤマト
『戦場まんがシリーズ』
『インセクト
銀河鉄道999
宇宙海賊キャプテンハーロック

などなど、書き切れるものじゃありません。
(『クイーン・エメラルダス』だけは私以外で読んでいた友達はいませんでした、何故?)

 

松本零士の描いたものなら何でも欲しがって、ハヤカワ文庫の『太陽の女王号』シリーズなんてのも買ってました。
『零士のメカゾーン』という画集も売れてましたね。
この頃の松本零士さんは、ほとんど寝る間もなかったのではないでしょうか。

 

 

 

潮目が変わったのはこの後のことです。
アニメはすっかりブームになって、本数も増えました。
『ヤマト』も続編が次々と作られて、でもファンは離れていきました。
正直、儲けるために無理に続けている感じで、「『ヤマト』はもういいよ」というのが当時のファンの本音だと思います。
1979年の『銀河鉄道999』は大ヒットしたものの、続編となる1981年の『さよなら銀河鉄道999』は私の周辺で見た人はほとんどいませんでした。
そして次に来た1982年の『1000年女王』は、映画の他にテレビアニメも作られたものの、まったく人気がありませんでした。

 

松本零士さんが亡くなったニュースが流れて、ネットで追悼文を多数読みましたけど、それらに書いてある作品名は『999』までであって、その後の作品名は目にしませんでした。
松本零士」のネームバリューが大暴落して、『1000年女王』はそれほどヒットせず、代わりに来たのが『機動戦士ガンダム』だったのです。

 

 

 

ちなみに『宇宙戦艦ヤマト』の実質的な監督は西崎義展さんであって、松本零士さんは監督とクレジットされているものの著作者ではありません。
「空を飛ぶ戦艦」というのは、西崎さんが子供の頃に読んだ海野十三さんや南洋一郎さんの作品から発想を得ています。
西崎さんは1973年に企画を立ち上げ、多くのスタッフと共に練り上げて、1974年にはほとんど形になっていました。


その後松本零士さんがデザイン担当として呼ばれて、結果的に『ヤマト』の内容を自分好みに変えていったわけです。
それでもあくまでトップは西崎さんであり、後の裁判でこの件はハッキリと決着がつけられています。
(当時のスタッフの証言もほとんどが裁判結果と同じもの)
この後の槇原敬之さんを訴えた裁判でも、松本零士さんは負けています。
そして両方の裁判が結審(和解)した後も、自分が正しいとする発言をしています。

 

それから松本零士さんのアニメ作品のメカデザインは、基本的なところは松本零士さんがやっていますが、それをクリンナップして詳細まで仕上げていたのはスタジオぬえです。
『ヤマト』のロマンアルバムに掲載されているメカ設定画のほとんどは、スタジオぬえが描いたものです。
コミック『宇宙海賊キャプテンハーロック』では、アニメ用にスタジオぬえが描いたメカ設定画をコピーして原稿に貼り付けたりもしています。
『零士のメカゾーン』でも写真をトレースしただけみたいな絵が多く、御本人が描いたのかどうか怪しいものが多いです。
それだけ多忙を極めたということでもあるのですが……

 

 

 

松本零士ブーム」が去った原因は色々と考えられますが、一つはSF考証的な弱さではないでしょうか。
テレビで『ヤマト』が放送されていた時期にそこまで細かいことを言うのは酷ですけど、多少の科学知識を持つ者なら気付くアラがあったのは事実です。
松本零士作品は純粋なSFというよりは、ファンタジーの要素が濃かったと思います。
戦艦や列車が宇宙を飛んでいくという作品ですから、SF考証を遥かに超えたテクノロジーのある世界の物語だということですね。
そういう作品は見方を変えれば、「子供っぽい」ということにもなりかねません。

 

そういう空気があったと思われるところに登場したのが、『機動戦士ガンダム』です。
富野由悠季さんは西崎さんに勝ちたくて、どうにかして『ヤマト』を超える作品を作ろうとしました。
おそらく富野さんの頭の中には、『ヤマト』のSF考証的な弱さも狙い所としてあったのでしょう。
ガンダム』の第一話で有線ミサイルが出てきたときに、「これは『ヤマト』とは違う!」と思ったアニメファンは多かったと思います。

 

ガンダム』では巨大ロボットが宇宙で戦う物語にするために、電波を妨害するような性質を持つ「ミノフスキー粒子」というものが登場します。
でなければ巨大ロボットなんて、誘導ミサイルですぐ撃破されてしまいますから。
電波が使えない = レーダーも無線も使えない → ミサイルは有線で誘導しなければならない、これを『ガンダム』ではきちんと絵にしていたということです。

 

どちらがいい・悪いではなく、新しいものにファンが流れていっただけのことですけどね。
SF考証でガチガチに縛られた作品が続けば、今度はスペースオペラ的な作品がウケるようになるでしょう。

 

それと考えられるのは、日本がオイルショックから立ち直って景気がどんどん良くなっていく時代に、それまでウケていた松本零士作品の浪花節的な味付けが「古臭い」と嫌われてしまったことも考えられます。
それこそが松本零士作品の魅力ですから、もっとドライなものが求められるようになると厳しいのは確かです。

 

 

 

松本零士作品には、細かいところまで描き込まれたメカがよく登場します。
細かい目盛りが描かれた丸いメーターもよく見ますよね。
あれは実は、ある腕時計のデザインにインスパイアされて描かれていたのです。
松本零士さんは若い頃に、ブライトリングのナビタイマーという腕時計を持っていました。
そのデザインが大好きで、複数本を所有して生涯愛用していたそうです。

ブライトリング・ナビタイマーの一例

どうです、あのメーターっぽいでしょ?
これはパイロット用に開発された腕時計です。
パイロットは飛行中に色々と計算する必要があって、電卓がなかった時代に簡単に計算するために、ベゼルに回転式計算尺を付けてしまったのです。
どうも松本零士さんの若かりし頃の話を読んでいると、アパートの部屋にステレオセットがあってワーグナーのレコードをかけていたとか、趣味にはお金を注ぎ込んでいたことが察せられます。

このナビタイマーのことを松本零士さんが描いた短編マンガがあって、ストーリーはご自身の若かりし頃のエピソードを元にしていると思われます。
そのマンガは「monoマガジン」の「モノ・コミック」という特集号(1991年)に掲載されていたのですけど、現在は入手困難となっています。
私はこれ、持ってたんですよね。
引っ越しのときに紛失したようで、本当に惜しいことをしたものです。

 

 

 

松本零士さんのご冥福をお祈りします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。