ビートルズといえば、名前だけでも知らない人はまずいないスーパーグループです。
解散から50年以上経った今でも、ザ・ビートルズを称える声は絶えません。
私なんかは直撃世代より少し下で、姉や兄が直撃世代の末尾くらいでした。
それでも私は彼らの解散直前に、東芝のCMで彼らの映画『レット・イット・ビー』の映像が使われていたのは見ています(当時小2かな?)。
『レット・イット・ビー』はシングルも大ヒットしていて、姉や兄がよくかけていました。
タイトルと、聞き取れる「レリビー」という音の食い違いが、当時の私には理解できませんでしたがね。
そんなスーパーグループがなぜ解散してしまったのか。
今回はその辺を書きましょう。
ビートルズのマネージャーといえば、ブライアン・エプスタインが有名です。
エプスタインは彼らの音楽を見出し、世間にウケるグループにするために整ったファッションと有名なマッシュルームカットを強要し、客の前での暴言やタバコもやめさせました。
ビートルズが広く愛されるための、エプスタインの戦略はまんまと成功します。
その後の彼らの活躍は、まぁ置いといて。
エプスタインはビートルズのメンバーにとっては口うるさい第二の父親みたいなもので反発もしましたが、でもメンバーは彼に従っていれば間違いないという信頼も寄せていました。
エプスタインは万能のマネージャーではなかったけれど、スタジアムをコンサート会場にするなどかなりのやり手でした。
(ビートルズのコンサートはチケットが即完売するのだから、できる限り大きな会場でやれば儲けも増える)
メンバー四人はエプスタインがいたからこそ、大きなトラブルを起こすことなく活動できたのです。
そのエプスタインは、1967年に急死します。
自殺説もあったものの、アスピリンの誤用による事故死とする説が今は主流です。
自殺説があったのは、ビートルズが1966年にコンサート活動をやめてしまい、レコーディングに専念するようになって、エプスタインの仕事が激減したことによるストレスがあったのでは? という理由です。
「第二の父親」がいなくなったメンバーは動揺し、メンバーの中からリーダーを出そうという話になり、一番ヒット曲を出していたポールがリーダーとなります。
これにジョンは反発し、ジョージを仲間にしてポールと対立するようになってしまいました(リンゴもジョンに近い立場)。
ビートルズはエプスタインの死後、事務所などの問題で大変なことになっていましたが、新会社「アップル・コア」を設立し、既にあった関連会社を一つにまとめます。
アップル・コアはただ単にビートルズのマネジメントをするだけでなく、広く多岐にわたったジャンルで芸術性のあるビジネスを目指していました。
ただビジネスに関しては素人のメンバーによる経営で会社は大きく傾き、またハイエナのように群がる者たちによって資金はどんどん流出していったのです。
そこでメンバーはビジネスのプロを招いてアップル・コアの経営を任せることにします。
ポールは自分の奥さんの父親が適任と推しますが、他の三人は「ポールの提案だから」とこれを拒否。
ジョンとジョージはローリング・ストーンズのマネージャー経験がある、アラン・クレインを社長にします。
でもポールは、ミック・ジャガーからアランの悪評を聞いていたので、彼とは距離を置きました。
アランはアップル・コアの不採算部門を整理し、経営の健全化を図りました。
その一方で不正経理で私腹を肥やしたり、ビートルズの収益を自分に流すような契約書を勝手に作り、ポール以外のメンバーにサインさせたりしました。
アランもハイエナの一人だったのです。
ポールはこの契約書のカラクリに気付き、メンバーにそれを伝えましたが、三人は「ポールの言うことなんて信用できるか!」と相手にしませんでした。
(子供のケンカみたい)
このままではいけない。
そこでポールは裁判を起こし、メンバー三人を訴えて、無理矢理ビートルズを解散に追い込みます。
それはつまり、アランへ流れるお金の流れを断つためです。
それを知らぬメンバー三人は激怒し、関係性は最悪になってしまいました。
その後数年間にわたり泥沼の訴訟合戦が続きましたが、後になってメンバー三人はポールのことを理解し、和解します。
この他にも、大富豪となりコンサートツアーがなくなってお金と時間に余裕ができたメンバーは、別々に活動したり仲間を作ったりしていて、四人の絆が弱まってしまったことも解散の原因となりました。
ジョンとポールは曲作りの才能もありながら、あらゆる楽器の演奏にも長けていて、所謂「ホワイトアルバム」のレコーディングでは自分の作った曲を自分一人で録音することもあったのです。
(マルチトラック・レコーダーが導入されたため、一斉に演奏する必要がなくなった)
ジョージもこの頃から曲作りに本腰を入れるようになり、エリック・プラクトンとの交流が始まったりしました。
そんな中、出番の減ったリンゴがレコーディングに来ていたときに、ポールが彼のドラミングを悪く言い、更にお手本としてポールがドラムを叩き、それに激怒したリンゴはビートルズ脱退を宣言して、家族で海外旅行に行ってしまうという事件も起こりました。
(さすがに残された三人のメンバーは慌てた)
リンゴは後に復帰しましたけど、もう一触即発状態だったのです。
そしてアルバム『レット・イット・ビー』と、そのメイキングとしての映画『レット・イット・ビー』(というかアルバムはサントラ扱い)の制作中にも、ジョージが脱退を宣言していなくなるという事件が起こっています。
演奏のことと、慣れないレコーディングスタジオに映画のスタッフが大勢いたことなどから、ストレスを抱えていたようです。
ポールは、メンバーの中で一番解散したくなかったのではないでしょうか。
ビートルズの解散前に最後に四人が揃った場で、ポールは小規模なライブをやろうと提案しています。
それをジョンは速攻で拒否したうえ、ビートルズ脱退を宣言してしまいます。
(契約の関係上、ジョンの脱退宣言は秘密とされた)
ジョンの脱退宣言にショックを受けたポールはスコットランドに静養に行き、そこで支えてくれた妻のリンダのおかげでソロでやっていく決心をします。
その裏で、ポール抜きでアルバム『レット・イット・ビー』の制作は勝手に進められ、ポールが望まぬ形でアルバムは完成します。
しかもアランはアルバム『レット・イット・ビー』の発売を優先させるために、リンゴを伝令にしてポールのソロアルバムの発売延期を指示します。
さすがのポールもこれには激怒し、リンゴを怒鳴りつけたと言われています。
ビートルズの四人は、1970年の暮れにポールが裁判を起こした後の混乱で、正式な解散には至っていませんでした。
四人が解散合意書にサインして、正式に解散したのは1975年のことです。
もしエプスタインが死なずにビートルズのマネージャーを続けていたら……
いや、よしましょう。
歴史にIFは禁物です。
その後何回も再結成の噂が流れましたが、ジョンが亡くなり、ジョージが亡くなり、残っているのはポールとリンゴだけ。
我々は残された音源を楽しむしかないのです。
ずっと後に、ビートルズの未発表音源や写真やフィルムやドキュメンタリーをまとめた、アンソロジー・プロジェクトがありました。
貴重な音源を公式に発売することで、海賊版に対抗する意味もありました。
(この音楽だけならSpotifyで聴けます)
アルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』のジャケットは、アルバム『リボルバー』のジャケットを描いたクラウス・フォアマンによるもの。
まるで街角に貼られたポスターが破かれたような絵です。

アルバム『Let It Be』のジャケット画像が破かれ、ポールだけが別になっています。
意味深ですねぇ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。