今回は、私が二番目に好きな画家のことを書きます(笑)。
ちなみに一番はこちら。
そして今回書く画家は、
ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)
です。

カイユボットは1848年にパリで生まれています。
参考までに。
マネ :1832年生まれ
モネ :1840年生まれ
ルノワール :1841年生まれ
バジール :1841年生まれ
彼の父親は商売で大成功した大金持ちで、カイユボットとその弟たちは三番目の奥さんが産みました。
(最初と二番目の奥さんとは死別した)
エリート校に通い、弁護士の資格を得たエリートであり、普仏戦争(1870年~1871年)に従軍もしています。
バジールはこの戦争で戦死しています。
それをルノワールは大変悲しんだそうです。※蛇足ですけど、アメリカ軍やNATO軍では戦死のことを「KIA(Killed In Action)」と書きます。
テニスの試合なんかでよく起亜自動車の広告が見られますけど、一瞬ドキッとしてしまう私(笑)。
絵が好きだったカイユボットは、レオン・ボナの画塾に通って絵を習います。
その画塾でジャン・ベローと友達になり、アンリ・ルアールやエドガー・ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスとも知り合いになります。
特にドガからは強い影響を受けました。
カイユボットは第一回印象派展には参加せずにサロンに挑戦しましたが、落選。
そのときの絵がこちら。

私がカイユボットの作品の中で一番好きな絵です。
おそらくこの部屋はカイユボットの自宅でしょう。
昔のフローリングというのは、傷んだら削ってキレイにしていたのです。
職人が床を削っている場面を非常に写実的に、ワックスを塗った部分と削った部分をきちんと描き分けて描いていて、素晴らしいです。
(こんないい絵を落とすなよ、サロンめー(笑))
この頃から、カイユボットは画家仲間の作品を買い取るようになります。
そうです、彼は大富豪の息子なんです。
仲間を支援するために、積極的に作品を買い取りました。
カイユボットは印象派の先輩たちを大いにリスペクトしていたのです。
彼の他の画家との決定的な違いは、一生遊んで暮らせるほどのお金持ちだったことですね。
カイユボットは第二回印象派展から参加しはじめます。
上記の『床削り』のほかに、弟・マルシャルがピアノを弾いている光景など、ブルジョアの暮らしぶりを描いた絵を出品しました。
印象派の中では従来の技法に近い彼の絵は、賛否両論だったそうです。
(マルシャルはピアニストじゃなくて、それで食っていこうってことじゃない、ただの趣味)
(マルシャルは写真家でもあったが、それも当然趣味) 羨ましいぜ……
カイユボットは第三回印象派展にも参加して、6点の作品を出品しています。
例えば……


印象派の画家たちとは違い、遠近感を重視し、質感にも拘った作品です。
『パリの通り、雨』の雨に濡れた石畳の表現の見事なことといったら、もう!
ちなみに、この作品の右端の人物、半分切れてしまってますよね。
これは弟の撮影した写真の影響です。
従来の絵画で、人物が切れるなんて表現はなかったのです。
他にも、建物の上のほうの階の窓から下を見下ろした作品もあり、これも写真の影響です。
当時、俯瞰の絵なんて描かれませんでしたから。
弟の道楽も役に立っていたのです。
ちなみにヨーロッパ橋というのは、サン・ラザール駅のそばにあった陸橋です。
駅から出発した列車はすぐに、ヨーロッパ橋の下を通過します。
新しく大きな駅だったサン・ラザール駅、そこから出発する列車はヨーロッパ中を巡ることから「ヨーロッパ橋」という名前になったそうです。
サン・ラザール駅といえば…… そう、モネです。
モネはサン・ラザール駅の中で、連作を描いています。

奥のほうにヨーロッパ橋の欄干が見えますね。
ルノワールもこの駅付近で絵を描いていて、つまりサン・ラザール駅はそれだけフォトジェニックな場所だったのです。
ちなみに。
屋外で自然を描くことを好んだモネが、なぜ駅の中なんかで制作していたかというと。
モネはパトロンの奥さんと不倫して、それがバレてしまい、しばらくサン・ラザール駅の近くのアパートでひっそりと暮らしていたらしいのです。
そしてそのアパートの家賃などの費用を出していたのが、何を隠そうカイユボットだったという。
モネは繰り返しカイユボットからお金を借りていて、その総額は日本円にして一千万円を超えていたとも言われています。
そしてモネは借りたお金を一銭も返していないし、カイユボットは「返して」なんて一言も言わなかったとか。
にんともかんとも……
カイユボットはその後も印象派展に関わっていきます。
ただ印象派の作品の売上があまり良くなくて、運営方法でもメンバー間の対立があり、カイユボットは強気な発言を繰り返すドガに辟易していたようです。
第四回印象派展ではドガの意向により、セザンヌやルノワールやシスレーやモリゾは不参加。
カイユボットは15点もの作品を出品したようです。
その中の一枚がこちら。

これまでに掲載した作品もそうですけど、カイユボットは水などをきちんと見る目を持っていたのです。
みなさん、小学校や中学校の美術の時間に絵を描きましたよね。
そのときに、この水面のような表現ができる子ってほとんどいなかったじゃないですか。
それは、水面を見る目を持つ人があまりいないからではないでしょうか。
カイユボットは第五回印象派展にも参加します。
しかし印象派の中心的メンバーは既にこのグループ展から離れてしまっていました。
カイユボットはグループ展を元の姿に戻したがりましたけど、ドガは反対。
そして第六回印象派展にカイユボットは参加しませんでした。
その後もゴタゴタは続き、ついに印象派展は開かれなくなってしまったのです。
(1886年の第八回が最後)
その後カイユボットは絵を描かなくなってしまいました。
ドガとの抗争の日々に疲れてしまったのかもしれません。
郊外に引っ越して、庭造りをしたり、ボートを作ったりして過ごしたそうです。
お付き合いしていた女性もこの家で暮らしましたが、籍は入れないままだったとか。
その後も時々はモネやルノワールと会ったりしていましたけど、1894年に庭作りをしている最中に肺うっ血で亡くなりました。
45歳でした。
カイユボットが買い集めた印象派の多数の作品は、遺言書に国に遺贈するよう書かれていて、その手配はルノワールにやってもらうよう指示されていたそうです。
ここでも印象派絵画の価値を巡って、色々ともめたのだとか。
受け入れ反対とかがありまして、今ならとんでもない価値のある作品ばかりなのにね。
ちなみにカイユボットって、アートに詳しい一部以外では意外とマイナーな画家でした。
彼はコレクターだと思われていたのです。
だって、彼は自分の絵を売る必要がなく、市場に出回らないのだから。
お金持ちであることが、こんな影響を残すとはね。
2013年に、当時のブリジストン美術館でカイユボット展がありました。
行きたくて行きたくてしょうがなかったけど、私は行けませんでした。
当時はそれくらい貧乏だったのです。
今でも行けなかったことを後悔しています。
美術展って、一回限りのものですからね。
弟の写真の影響を受け、印象派にカテゴライズされながら独自の画風を作り上げ、物をきちんと見てそれを絵画で表現することができた画家、カイユボット。
変な書き方ですけど、もし自分が画家ならカイユボットのように描きたい。
私はそんな風に思っています。
それくらい大好きな画家です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。