スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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日テレのドラえもん

大山のぶ代さんが亡くなったそうです。
ドラえもんの声の人」として日本人にとっては当たり前の人気者でした。
晩年は認知症だったそうです、90歳まで頑張ったのですね。
御冥福をお祈りします。

 

 

 

さて、今回はテレビアニメ『ドラえもん』のことを書きます。

のび太くんの話はいつも泣かせるね」

と言っても「日テレ版ドラえもん」のことです。
テレビ朝日でやっている『ドラえもん』より前に、もう一つの『ドラえもん』があったのです。

 

日本テレビの『ドラえもん』は、1973年の4月から9月までの2クール放送されました。
(全26回、52話)
私自身は見た覚えがありません。
(この頃の『ドラえもん』はマンガも全然知名度がなかった)
最初の『ルパン三世』が1971年に始まっていて、『宇宙戦艦ヤマト』が1974年スタート。
私の中ではもう『ドラえもん』は子供っぽくて、見ようとは思わなかったのです。
(子供向けのアニメを大人がわざわざ見て楽しむような風潮は当時はなかった)
テレビ朝日で『ドラえもん』が始まったのが1979年、あの『機動戦士ガンダム』と同じ年ですから、私が見るわけがありません。
(以後『ドラえもん』は『ドラ』と略します)

 

 

 

製作は日本テレビ動画というアニメ制作プロダクションで、その創設には新倉雅美(にいくら まさみ)という人物が関わっています。
日本テレビとは直接の関係はない)
この新倉という人物は業界での評判が悪く、金銭トラブルが多かったそうです。
日テレ版『ドラ』の放送枠獲得についても悪い噂があったとか。

 

制作担当は真佐美ジュン(まさみ じゅん、本名は下崎闊(しもざき ひろし))で、現場を取り仕切るリーダーでした。
彼は『ドラ』に関して、子供に夢を与える番組にできると確信し、若手の育成も目標としてこの仕事を受けました。
つまり日本テレビ動画のトップと現場のリーダーの間に温度差があったということです。
ここで既に不穏な空気が流れてますよね。

 

 

 

日テレ版『ドラ』は、2クールの契約でスタート。
準備期間が短くて苦労したそうです。
よく「日テレ版『ドラ』は打ち切られた」などと言われますけど、これは完全なるデマであって、オタクっぽい「盛った嘘話」です。
日曜日の夜7時というゴールデンタイムの放送で、数字的には苦戦しましたが日テレ内では善戦してるほうだと捉えられていたとか。

 

今では想像しにくいことですけど、最初のドラえもん役の声優は富田耕生(とみた こうせい)でした。
富田さんといえば、『美味しんぼ』の唐山陶人役(おヒゲが立派な陶芸家、海原雄山の師匠)とか、『名探偵ホームズ』のワトソン役など、渋い中高年男性のイメージが強いです。
富田さんが採用されたのは、当時のアニメのスタッフが「ドラえもんは親切なおじさん」というイメージがあったからだそうです。

 

日テレ版『ドラ』の1クール目は数字がイマイチだったことからテコ入れが行われ、2クールからはドラえもんの声優は野沢雅子(悟空ね)に交代。
(この交代に関しては視聴者からの抗議があった)
他の声優は今のテレビ朝日版とほとんど同じ(役は違えど)だったそうです。
日テレ版『ドラ』はマンガ版の初期のテイストをそのまま活かしていましたが、2クール目はドタバタ感を増やして弱年齢層の取り込みを図りました。

 

 

 

リーダーであった真佐美は一貫して子供たちのために良い作品を作ろうと頑張っていたそうです。
数字は今ひとつでしたが収益は黒字であって、3クール目の話も出ていたとか。
(8月頭に房総半島にある日テレの保養所にスタッフが招かれてパーティもやった)
ところがこのパーティの後に、下請けの間で悪い噂が飛び交うようになってしまいました。
それは「日本テレビ動画は解散するのでは?」「我々下請けにはギャラが支払われなくなるのでは?」という不穏なものでした。
真佐美は噂を否定し、もしものときは責任を取ると約束して仕事が止まらないようにしたそうです。

 

そんな真佐美の想いを踏みにじるように。
代表の新倉が失踪します。
正確な理由は分かりませんけど、資金繰りに行き詰まったのでは? と言われています。
そして代わりに代表になった人物はアニメに何の関心もなく、『ドラ』によって過去の損失の穴埋めができたことから、あっけなく日本テレビ動画の解散を決定。
(テレビ業界では以前から「新倉には関わるな」という空気があったそう)
混乱の中、真佐美は奔走して何とか2クールの最後まで『ドラ』を完走させました。
日本テレビ動画が解散する直前には、社内にあったデスクやら椅子やらを何でも売って下請けへの支払いに充てようとしましたが足りず、結局ギャラを受け取れなかった下請けが出てしまったのです。

 

 

 

日テレ版『ドラ』の最終話が放送された後。
日本テレビ動画の事務所は明け渡しが決まっていて、家具類は既に売りに出されていてガランとしていました。
残されたアニメの資料は真佐美が自分の車に積んで、荒川の河原で燃やしてしまったそうです。
最後まで『ドラ』に未練が残った真佐美は燃えていく『ドラ』の資料を見て、「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と語っています(MSN産経ニュース)。
真佐美はこの件でアニメ業界から去っていきました。

 

日テレ版『ドラ』は結構再放送されていたそうです。
ところが1979年、富山テレビ放送での再放送の途中で、原作者と小学館側(一説ではテレビ朝日側)から抗議と放送中止の求めがあったのです。
これにより富山テレビ放送での再放送は中止(富山事件)、これ以後日テレ版『ドラ』は再放送されていません。

 

原作者は日テレ版『ドラ』を自分の描いた原作マンガとはかけ離れた作品だといい、毛嫌いしていたそうです。
(一説ではそこまで嫌悪はしていなかったとも)
どちらにしろ、原作者・小学館テレビ朝日からしたら、テレ朝版『ドラ』が好評なのだから日テレ版『ドラ』の存在なんて邪魔でしかないってことです。
真佐美はわずかに残されたフィルムの無料上映会をやっていましたが、これも原作者側からの要請で中止に追い込まれたそうです。

 

 

 

では失踪した新倉はどうなったのか?
新倉はフィリピンに渡り、向こうで映画をやろうとしたが失敗、お金に困って暴力団の拳銃密輸に関与。
帰国した際に逮捕されて、拳銃50丁と実弾1,400発が押収されました。
それ以後の消息は分かっていません。

 

日テレ版『ドラ』については、資料は真佐美が燃やしてしまったためほぼ現存せず、フィルムも真佐美が個人所有するもの(ラッシュフィルム、放送されたものとは違うもの)が僅かにあるだけでした。
再放送に使用されたフィルムも行方不明だそうです。
後の調査でイマジカの倉庫に16話分のネガフィルムが保管されていることが判明。
ところが日テレ版『ドラ』の権利関係が不明なため、外へ出すことができないそうです。

 

最後にもう一つ。
実はフジテレビでも『ドラ』の企画があって、アニメと実写の二つの企画のうち実写版を作ろうという話があったそうです(1972年)。
でもこの話はどこかで消滅してしまいました。
で、この実写版のドラえもんの声優として起用される予定だったのが、大山のぶ代だったのです。
テレ朝版『ドラ』で大山のぶ代が主役に採用されたのは、このことが影響していたのかもしれません。

 

 

 

また長い記事になってしまいました。
日テレ版『ドラ』については、ニコニコ動画でOPとEDを見ることができます。
いつかイマジカに保管されているフィルムも、何らかの形で日の目を見るといいのですが。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。