私は昭和三十年代に生まれました。
両親と姉と兄がいる五人家族で、私は末っ子でした。
昭和の中頃って、母親の子への過保護が問題になりはじめた時期です。
戦後が終わって日本が豊かになって、あと家電が普及して主婦の負担が軽くなっていった時期だと思います。
自分の子供に愛情をそそぐ余裕があったからこそのことでしょう。
「教育ママゴン」なんて言葉もありましたね。
私も母親に溺愛されました。
もうここに書くのも恥ずかしいくらいで、母のしていた私の扱いはまるでペットの猫みたいなものでした。
毎日毎晩、カワイイカワイイって。
姉や兄も私を可愛がってくれましたが、さすがに母ほどではなかったです。
小さい頃ってそういうことを当たり前に享受するもので、私は特に変だとは思っていませんでした。
でも小学校の2、3年生くらいから段々と気付き始めるのです。
家族の中で自分ばかりが優先されていること。
姉や兄は猫のようには扱われていないこと。
タケノコを使った料理が晩ご飯に出てくる場合、穂先は必ず私のお皿に入っていたこと。
私だけ焼き魚の骨は母が取ってくれたこと。
そして友達の家へ行くと、友達の母親はうちの母のようなことをしていなかったこと。
みっともないから嫌な気持ちもあったし、家の中なら誰も見ていないからお得でいいじゃんという気持ちもありました。
ただ中学生になるとさすがに嫌になって、母とは距離を置くようになっていきました。
反抗期ですね。
高校生になるとお互いが距離の取り方に慣れてきて、母とは話が合ったから上手く付き合えるようになっていきました。
大学卒業と同時に一人暮らしを始めた私は、よく母と長電話をしたものです。
そんな私は大人になってから、ずっと気になっていたことがありました。
私ばかり優先されてきた子供時代に、姉や兄はどう思っていたのかがです。
もしかして、モヤモヤしたものがあったのかもしれないなって。
でも面と向かって聞くのも抵抗があって、中々聞けなくて。
そのうち兄は亡くなってしまい、母も亡くなってしまいました。
母の葬儀で集まったときに、私は思い切って姉に聞いてみたのです。
子供の頃、私ばかりが優先されて可愛がられて、それが嫌じゃなかったかって。
すると姉は、
「えー? そんなの気にしてなかったよー」
拍子抜けする回答でした。
姉が言うには子供の頃の私は本当に可愛かったし、母の過保護もほのぼのした笑えるものだと思って見ていたそうです。
(確かに母はちょっと天然で面白い人でした)
それに長女っていうのは色々と損な役回りになりがちだから慣れていたと、姉は言いました。
ほっとしましたね。
と同時に、姉の存在の有り難さを思い知りました。
私の姉っていうのは真面目で真っすぐで、世話好きでした。
メカ系統はからっきしでしたが、それ以外は何でもソツなくこなせる人でしたね。
六歳下の私のこともいつも気にかけてくれて、母がいないところでは母の代わりになってくれたりして。
私が中学生に上がった後は、身だしなみのことを教えてくれたり、服やバッグを買ってくれたりして。
ファッションに詳しい姉がいなかったら、十代の私はどれだけダサい格好をしていただろうって思います。
そんな姉ももういません。
(父ももういません)
残念ながら、私にはもう家族はいないのです。
寂しいと思ったことは一度もないけど、自分もいい大人なのだから家族に対してもっともっと恩返しをしておくべきだったという後悔はあります。
末っ子だからって甘えてばかりでいいわけがありません。
まさに「孝行したい時分に親はなし」です。
子供の頃には家族なんてそのまま永遠に自分の周りにいてくれると信じて疑いませんでしたが、それは間違いでした。
家族なんて、脆くて簡単に壊れて無くなってしまうものです。
そして一度壊れたものは二度と元には戻らない。
それは風に流されたシャボン玉のようなものなのです。
今日のお昼は簡単に済ませました。

また温泉玉子に挑戦してみました。
ゆで卵の作り方で七分間茹でたら白身が固まっていて、黄身とその周辺の白身は緩くて。
五分間くらいで丁度いいのかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。