私が若い頃の話だ。
私がその頃付き合っていたのは、職場で知り合った二つ下の女性だった。仕事は大企業の某プロジェクトで、多くの会社が参加していて、私と彼女は別の会社に所属していたが同じグループだった。
彼女は可愛らしく、仕事の合間の会話が楽しかったので、週末のお出掛けに誘ったらすんなりOKがもらえた。二人で映画を見て、ショッピングをして、飲みに行って。自分の中で「今夜はこの辺でお開きだな」と思っていたら、向こうから「今夜泊まってもいい?」と聞いてきて、そのまま付き合うようになった。
彼女は今の仕事をするのに地方から出てきて、東京の暮らしには慣れていなかった。当然友だちは一人もいなくて、九割が男性の職場では友だちを作るのも無理だった。狭い賃貸マンションで過ごす時間は退屈で、だから私から誘われたときは渡りに船だったのだと後で聞いた。慣れない仕事で困っているときに私がよく助けていたから、悪い人ではなさそうだと思っていたとのこと。
彼女は東京は初めてで、ほとんど知識はなかった。別に東京に憧れていたわけではないが、せっかく来たのだからと色々な場所に行きがたった。だから私は彼女を色々な場所へ連れて行った。でも彼女は、ガイド役の私に大人しく従うタイプではなかった。

「ここが丸の内の仲通りだよ、シャレてるでしょ?」
「ほんとだ」
「ドラマやCMのロケも多いんだよ」
「へー」
「オシャレでいいよね、こういう雰囲気は好きだな」
「えー、あなたに似合わなくない?」
「もー、いいじゃん好きなんだから」
「いいけどさぁ」
上野の有名なお店で食事したときもそうだった。
「ここのうな重は評判がいいんだ」
「へー」
「寄席が近いから落語家もよく来るんだって」
「私、落語に興味ない」
「いや、そういうことじゃなくてさぁ」
「美味しけりゃいいじゃん、知らない人はどうでも」
こんな感じだった。別に仲が悪いわけではなく、イチャイチャもしていたのだけど。
話していて分かったのは、彼女は四人姉妹の長女だということ。私は三人兄弟の末っ子。表面的な面白さや楽しさを喜ぶ私と、質実剛健な彼女ということで、年齢とは逆の立場になりがちだった。仕事では私のほうが先輩で彼女は私に頼っていて、こういう関係性がなければもっと酷かったかもしれない。
そんなこんなで二人の付き合いは続いていった。職場ではこの付き合いは初期段階でバレていて、もういじられることもなくなっていた。仕事の後は二人で食事することが多かったし、週末もほとんど一緒に過ごした。お互いに不満がないわけじゃないだろうけど、私としては終わる気はまったくなかった。
そしてある日、二人が参加していたプロジェクトから多くの会社が撤退することを上司から知らされた。規模縮小である。二人とも外部から参加していたので、今の職場で一緒に働くこともなくなるのだ。やがて、お互いの次の仕事がまったく別のものだということが分かった。
なんとなく私は、彼女とずっと一緒に働けると思っていたのでショックだった。別の職場になって会える時間が減るのも嫌だった。それで同棲することを彼女に提案した。
「今の部屋じゃ狭いから、もう少し広い賃貸に越してもいいし」
「うん」
「一緒に暮らして仕事は別々で、それでいいと思うけど」
「そうだねぇ」
「何、乗り気じゃないの?」
「うーん」
彼女の煮えきらない態度に少しイライラしたけど、私はこの提案は通ると思っていた。実際に物件も探し始めた。

その後二人で飲みに行ったときのことだ。居酒屋で飲みながら、私はそのときに読んだばかりの小説のことを話していた。主人公はトラブルを起こして警察の厄介になり、その後自宅へ戻って来るが、そこへ主人公の師匠と言っていい先輩の男がやってくる。先輩は主人公に言う。
『いいか、ヤケを起こしそうになったら俺んとこへ来い、いいな』
私はこのセリフに感動して、そのことを彼女に話した。
「ね、いいセリフでしょ、こんなこと言える人はカッコいいよね!」
「うん、まぁ」
「『俺んとこへ来い』っていうのは凄いよ!」
「でもさ」
「ん?」
「そのセリフ、あなたが言えるようにならないとね」
それが彼女の、私に対する気持ちだった。友だちのいない東京で恋人として付き合うにはいいが、生活を共にするには頼りない、そういうことだ。私は頭から氷水をぶっかけられた気分だった。確かに私は、「俺んとこへ来い」と言えるような人間じゃない。
結局、同棲の話は立ち消えになった。二人の間でそういう話題は出なくなった。それでもプロジェクトが終わるまでは、それまで通りの付き合いは続いた。
そして最終日。夜に大規模な送別会が開かれ、大勢のメンバーが別れを惜しみ、お互いの健闘を祈りあった。
大勢が騒ぎながら二次会へと流れていく中で、私と彼女はそこから離脱した。そして彼女が使う駅へと歩きながら、私は今後のことを考えた。二人で連絡を取り合いながら付き合いを続ける可能性もある、そうなればいいと思っていた。
駅の近くの人通りが少ない場所に、彼女は私の手を引いていった。そして彼女は、急に私に抱きついた。
「ごめんなさい、でもここでお別れ」
「うん」
私は彼女を抱きしめることもなく棒立ちしていた。
「あなたのこと、嫌いじゃないの」
「うん」
「元気でね…… サヨナラ!」
彼女は私から離れて、改札口へと足早に去っていった。私は追わなかった。
それが最後だった。
後日。
業界は狭い、色々な情報が飛び交う。彼女が同じ職場の男性と結婚したという話も聞こえてきた。
「きっと旦那さんは『俺んとこへ来い』と言える男なんだろうな」
この先そう言える男になれるのかな、私はそんなことを考えていた。
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