前回の記事で私は、吉野家の牛鍋丼の嘘について書きました。
牛鍋丼を売るために、吉野家が歴史を改ざんした……
読んだ方の中には「吉野家みたいな企業がそんな嘘つくわけないだろ!?」と思った人もいると思います。
私も『牛丼の戦前史 東京ワンニラ史 前編』を読んだときには驚かされました。
この本によると、食品業界の人間は当たり前に嘘をつくものなのだそうです。
「うちは創業◯◯年だ」
「◯◯はうちが元祖だ」
「創業当時はこんな無茶をした」
商売で成功して成り上がったとき、食品業界の人は過去についてこういうことを言い勝ちなのだとか。
それを同業者やメディアは当然のこととして、騒いだりはしないものなのだそうです。
吉野家を始めたのは松田栄吉、チェーン店化して大きくしたのが松田瑞穂、その次の社長が安部修仁。
この安部修仁は実は「嘘を言わない男」として有名だったそうです。
食品業界にいながら嘘やハッタリを言わない人だったから、周囲からは珍しがられて信用されたのだそうです。
一方、吉野家を大きくした松田瑞穂は嘘をつくタイプの人間だったそうです。
たとえばこちらの画像。

日本橋の魚河岸にあった吉野家の絵ですが、実はこの絵には裏付けるものが何もないそうです。
当時の日本橋の魚河岸の地図が残っていて、そこには細かく屋号が記入されていますが、吉野家の名前はありません。
また当時を知る人の証言に、吉野家は登場しません。
もしこんな立派なお店が本当にあったのなら、不思議な話ですよね。
安部修仁は日本橋時代の吉野家について、「屋台に毛が生えた程度の店」と証言しています。
この絵と全然違いますよね。
安部修仁は嘘を言わない人間です、たとえ先代の言ったことでも間違っていればそれを違うと言ったのです。
また築地に魚河岸が移ってからの証言で、吉野家は築地でお店を出すための権利を買ったというのがあります。
もし日本橋でお店を出していたのなら、築地に移転するときに権利を買う必要はないはずです。
吉野家の「牛丼一筋80年」というコピーを覚えている方は多いでしょう。
これについても安部修仁は否定していて、日本橋時代の吉野家では天ぷらなども出していたそうです。
松田瑞穂は戦災で焼けた築地の吉野家を昭和22年に再建。
薄利多売のシステムを磨き上げて、昭和40年にはついに売上一億円を達成します。
実はこの当時の吉野家では近江牛を使っていて、牛丼の価格は今の価値で千円以上したそうです。
それにしたって一店舗で一億円は凄い!
そのとき松田瑞穂は、雑誌で見たセミナーに行ってチェーン店化を思い付いたと言っています。
売上一億円のお店を三つ作れば三億円になる……
実は牛丼のチェーン店は、吉野家が初めてではありません。
今でも新橋にあるなんどき屋が日本初の牛丼チェーン店です。
※なんどき屋はJR新橋駅・烏森口そばの居酒屋と、そこから派生した銀座ナイン1号館の小さいお店が今でも営業中です。
なんどき屋の牛めし
生肉から煮て作られてチェーン店より薄味
なんどき屋は創業昭和35年(1960年)、翌昭和36年(1961年)にチェーン展開を開始。
ファストフードのチェーン店は日本にはまだなくて、しかも牛丼/牛めしが一回途絶えて知名度も低くなってしまった時期に、その牛めしでチェーン展開というのはかなり大胆です。
吉野家が新橋に二号店を出した時点(昭和43年、1968年)で、なんどき屋は12店舗を展開していました。
しかも24時間営業!(だから「なんどき(でも開いている)屋」)
なんどき屋には吉野家にはなかった、牛皿、ご飯、お新香、生卵、味噌汁、焼き鮭や納豆などの定食がありました。
24時間営業だけに食事だけではなく、飲みに来るお客もいたのです。
なんどき屋はお店を出すときに、駅近の繁華街で小規模なところを選びました。
支出を出来る限り少なくできて、開店してすぐにお客が入ってくれるからです。
そしてなんどき屋の塚越社長は人材育成を重視して、社員に珠算や簿記を習わせました。
このなんどき屋のビジネスモデルが今の牛丼チェーンの基礎になったわけです。
こんないいお手本があるのですから、松田瑞穂はセミナーなんかに行く以前に真似するのが自然です。
そして吉野家はなんどき屋の近所の新橋に店を出し、24時間営業を始めたのです。
(もっとも24時間営業の経験がなかったため、すぐに営業時間は短縮されてしまった)
メニューもなんどき屋をマネて、高かった近江牛から安いアメリカ産の牛肉に替えて、サイドメニューも追加しました。
吉野家は人材育成にも力を入れ始めて、この頃に安部修仁がアルバイトとして入ってきます。
不人気な牛丼店で優秀な人材を集めるための手段として、育成もするし頑張るスタッフは出世できるというのをアピールしたのです。
松田瑞穂はおそらく、なんどき屋を模倣したと言いたくなくてセミナーの話をしたのでしょう。
それくらい吉野家のやり方はなんどき屋と一緒だったのです。
(なんどき屋にあったうどんだけは吉野家は真似しなかった)
その後、なんどき屋は規模を縮小して、吉野家は日本を代表する牛丼チェーン店に成長します。
(なんどき屋のこの辺りのことは書いてない)
昭和53年にはついに200店舗を突破。
あまりの急成長に無理があったのか、昭和55年(1980年)に吉野家は倒産しますが、無事復活。
吉野家再建のために頑張った安部修仁(当時42歳)は、セゾングループから来ていた和田繁明会長に社長に任命されます。
その理由の一つは、安部修仁は嘘をつかないから。
そんな安部修仁でも牛鍋丼を売るために嘘をつかざるを得なかった。
それくらい当時の吉野家は危機的状況だったということですね。
ゴチャゴチャした記事で読みづらくてすみません。
最初に書いた本には、こういう食文化の歴史が沢山載っています。
その知識が何かの役に立つわけではないでしょうけど、とても面白いのです。
こういう話が好きな人にはオススメします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
