昨日の「おそば屋さんのカレー丼」ですけど。
二食分作った残りを先程頂きまして。
温め直すときに、片栗粉を足してみたのです。
そしたらある程度は固まって、ご飯の上に乗るようになりました。


やはり片栗粉が不足していたようです。
硬さはこれでいいとして、でも全体的に味が弱く、特にカレー感が弱すぎでした。
そういう意味でレシピを修正して、また近い内にチャレンジしようと思います。
(そういえば最近マツコの番組でそば屋のカレーを取り上げたそうですね、TVerで見てみよっと)
自分が歳を取ると、若い世代との違いが気になってきます。
言葉遣いについては当然として、それ以外にも色々と。
言葉遣いに関しては、「ら抜き言葉」はもう当たり前になってしまいましたね。
あと「助詞に何でも『が』を使いがち問題」とかもあります。
「このスニーカー『が』、あのショップで売ってたよ」
とかいう使い方ですね。
この場合、『が』を使いたいのなら続きは「あのショップで売られてたよ」にすればいいのですが。
(ら抜きだと「売れてたよ」になるのかな?)
まぁ普通は『は』を使うでしょうけど。
上記のままだとスニーカーが店員として何かを売っていたことになってしまいます。
たぶん話すときに、とりあえず『が』までを一回言ってしまってから、その後を新たに考えているのでしょう。
「主語+『が』」がパターン化している感じがします、助詞を一々選ぶのではなくて『が』一択で。
「凄く◯◯」を「凄い◯◯」というのも当たり前になりました。
「今日は凄く人が多いね」を「今日は凄い人が多いね」というパターンです。
そんなに凄い人ばかりがいたのかね(笑)。
こういうのが気になってしまう私なのですけど。
前にNHKでニュースを見ていたら、小学校の授業風景が出てきまして。
教室で先生が話している言葉が、既に上のように間違っていたのです。
先生は私のような年寄りじゃなかったから、違和感はないのでしょう。
こうなるともうどうしようもないですね。
あと飲食店での振る舞い方もあります。
若い世代は飲食店でオーダーしたものは絶対に残すな、それがマナーだ! と信じています。
私からしたら「そんなバカな!」という話ですけど、向こうもこちらと同じ勢いで信じているので相互理解は不可能です。
どうも今はお客のほうが下手に出る傾向が強くて、店員さんに物凄く気を使っているようです。
食べ終わった食器は重ねてテーブルの通路側に置かなければいけない! それがマナーだ! そういう意見もよく聞くし見ます。
飲食の経験がある私からしたら、それは「早く片付けろ!」という催促ですよ。
店員がやるべき仕事をお客がやらされて迷惑だ、そういう意思の表明です。
まぁ高級なお店に行ったら、誰もそんなことしないでしょうけどねー。
例えばタクシーに乗ったお客が、「運転手さんも疲れたでしょう、私が代わりに運転しますよ」というのと同じことをしていませんか? という話です。
お店としてはお客様に寛いでほしいわけで、店員の仕事なんて奪わないでくださいというところです。
あとテレビの食レポもね。
テーブルマナーがメチャクチャなのはしょうがないです、タレントなんて下品なものですから。
犬食いやパスタのラーメン食いなんて今や当たり前です。
それでも私が気になるのは、やたらと「ありがとうございます」と言うことです。
食レポだとしてもタレントはお客の立場ですから、一々お礼を言うのはどうかと思うのです。
(お店からのサービスなら別ですが、代金を払う立場ですから)
もちろん感謝の気持ちを持つのはいいことだし、横柄な態度はダメだと思いますけど。
その加減が極端なんですよ、まるで何かを恐れているみたいで、ビクビクして。
『ずん喫茶』の飯尾なんかは、メニューにあるものをオーダーするときに一々「いいですかぁ?」って…… 普通聞くか?
あとほとんどのタレントは、料理が複数出ると一品ずつ「いただきます」って言うけど、くどいです。
じゃあ「ごちそうさまでした」も毎回言いなさいよ、そういう話です。
あと『せっかくグルメ』の日村ね。
最近はやめたようですが、飲食店に取材許可の電話を入れたときに、向こうが「はい、◯◯です」って言ってるのに、それなのに「◯◯さんですか?」って聞いたりして。
お店の人の立場で考えたら、お前頭ピーッのか?って話ですよ。
今言ったでしょ!?
ビジネスの現場でこんなこと絶対に言わないです。
さすがにこの行(くだり)はスクリプトから削除されたみたいですね。
と、色々と文句を書きました。
これって、昔私の亡き母が言っていたことと同じなんですよね。
私が若い頃に、あんたの言葉遣いは間違っているとか、それはマナー違反だとか、よく言われました。
言われた私はそれを鼻で笑っていたわけで、今考えれば失礼な息子だったと思います。
父や母の世代は志賀直哉の文章が日本語のお手本だと言われて育った世代ですから、若い頃の私と合わないのは当然として、もっと色々教わっておくべきだったと今は思います。
自分が高齢者になってみると、母の気持ちが分かるような気がしてきます。
世の中がどんどん変わっていって、自分の知識やルールとは違っていってしまう違和感ですね。
「それ違うよ」と言いたいし、つい言ってしまうけど、そんなの誰も相手にしない。
ああ、自分は世の中の流れから外れてしまった存在なんだなっていう諦め。
でもその先にあるのは、意外かもしれませんが「傍観者の気軽さ」です。
自分だけで勝手にやっていいし、世間に一々合わせなくていい気軽さが心地よくなってくるのです。
例えると、町内の夏祭りがあったとします。
広場に櫓(やぐら)が組まれて、その上で太鼓を叩く大人がいて、周囲には浴衣姿で踊る人が輪になって。
高町に人々が群がって、遊んだり立ち食いしたりして。
それを集合住宅の上のほうから見下ろして、「はいはい、ご苦労さん」「蒸すのに大変だね」と言ってるような感じかな。
亡き母がそんな風に思っていたのではないかと、そういうことが最近になって段々と分かってきました。
これが年寄りの境地なんだって。
なんか気楽、なんか自由。
全然悪くないじゃん。
傍観者になれず、お店で怒鳴り散らすような老人にだけは成りたくないですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。