前回の続きです。
明治時代の画家というと、黒田清輝(くろだせいき、1866年(慶応2年)~1924年(大正13年))という大御所がいます。
フランスで絵を学び、今の芸大で教え、貴族院の議員を勤めたりしたとにかく凄い人なわけです。
この人のおかげで日本の洋画は大きく進化したわけで、前回と今回のタイトルからしたら「なんで黒田清輝のことを書かないの?」と叱られてしまいそうです。
まぁそこは活躍した時代が違うということで、別の機会に回します。
(明治の洋画は「黒田以前」と「黒田以後」と分類されることもある)
高橋由一 1828年(文政11年)~1894年(明治27年)
五姓田義松 1855年(安政2年) ~1915年(大正4年)
黒田清輝 1866年(慶応2年) ~1924年(大正13年)
(「田」の字が目に付くなぁ)
黒田は今の中学生くらいのときに、由一の弟子の細田季治に絵を教わっています。
由一の孫弟子になるのかな。
さて今回は五姓田義松(ごせだよしまつ)のことを書きます。
高橋由一はアートファンには有名ですけど、五姓田義松は最近になるまでその名は知られていませんでした。
義松は江戸で画家の父の元に生まれます。
親譲りなのか子供の頃から絵が上手かったらしく、10歳にして高橋由一も教わった横浜のチャールズ・ワーグマン(1832年~1891年)に絵を教わります(1865年(慶応元年)~)。
というか義松がワーグマンに絵を習い始めたのは由一が入門した前年で、義松10歳、由一37歳という年齢差でした。
二人の関係がどんな風だったのか、興味ありますね。
特に由一が義松をどう見ていたのか。
(小説かマンガになりそう)
ここで重要なのは、既に狩野派の画家だった由一と違って、10歳の義松は従来の日本の絵画を習っていないことです。
アラフォーの由一は日本画の描き方が根っこまで染み込んでいたのに対して、義松は最初っから洋画だったのです。
もう一つ。
これも忘れてはいけないのは、ワーグマンが教えた絵です。
ワーグマンはイギリス人で、二十歳の頃にパリで絵を学んでいます。
ということはつまり、ワーグマンが義松や由一に教えたのは印象派以前の絵画だったということです。
義松は油彩画、水彩画、鉛筆画を習って習得していきます。
それは日本画と違って、見たままを描く写実的な絵でした。
義松は1871年(明治4年)にワーグマンから独立。
今の高校生くらいの頃に横浜の外国人に絵を売るようになります。
五姓田家は家族の絆が強く、義松の売り上げは母が管理して、弟も画家になり、義松は家族の絵をいくつも描いています。

日本画とはまったく違う写実的な表現をしている。

1872年
完全に洋画の技法で描かれている。

目の前にあるような写実表現が凄い。
そして五姓田家は皆絵を描いていた。
1874年(明治7年)に義松は陸軍士官学校の図画教師となり、1877年(明治8年)には内国勧業博覧会の洋画部門で最高賞を受章。
翌年には明治天皇の御付きの画家となって行幸に同行しています。
この時点で義松は二十代前半、この若さで日本を代表する洋画家になっていたのです。
まさに天才。

1875年
この絵を描いた翌日に母は亡くなっている。
※どこからこの費用が出たのか分かりませんけど、当時としてはかなりの金額が必要だったと思われます。
パリで先生に教わり、サロンで日本人初の入選を獲得!
あの西洋絵画史でおなじみのサロン・ド・パリに入選って、凄い!
義松は絶好調…… のはずでした。
義松は「サロンで入選した画家」だったにも関わらず、彼の絵はさっぱり売れません。
それもそのはず、パリでは義松の絵は既に古臭かったのです。

1883年
サロンに入選した作品の一つ。たしかに古臭い……
19世紀の終わり頃といえば、いわゆる外光派(印象派などの自然光による色彩表現をした絵画)が主流でした。
横浜でワーグマンが義松に教えた絵画は、それ以前の技法だったのです。
義松は自分の絵が売れず、次第に酒浸りになっていきます。
生活は何とかなっていたようですが、自分の絵を否定されるような状況が続くとこれはしんどいです。
その後イギリスとアメリカを経由して、義松は1889年(明治22年)に帰国します。
くすぶる義松を余所に、1884年(明治17年)~1893年(明治26年)にパリに行っていた黒田清輝が帰国。
(元々は法律を学びに行っていた)
彼が持ち帰った外光派の技法が日本の洋画の世界に浸透していきます。
最新の技法が日本の洋画壇に広まる中で、義松が活躍する余地はなかったのです。
その後も義松は絵を描き続けて、明治美術会の立ち上げに関わり、風景画が売れたりはしたようです。

1905年
そして義松は日清戦争に従軍した後に、1915年(大正4年)に亡くなっています。
天才と言われ、展覧会で最高の評価を受けて、天皇陛下の御付きの画家になり、日本人初のサロンに入選した画家にしては寂しい最後だったと言えます。
いつも思うのは、なぜ義松は外光派の絵を描かなかったのかということです。
彼ほどの天才なら、新しい技法だって取り入れることは可能だったはず。
でもそれは難しかったのかもしれません。
前回の高橋由一の記事の中に『花魁』という作品が出てきますよね。
あれを見て、リアルな絵だと思いましたか?
たしかに浮世絵よりはリアル寄りだけど、印象派絵画に比べると中途半端です。
狩野派だった由一にとってはあれが限界だったと考えていいでしょう。
平面的で記号的な日本画を長年描いてきた由一の精一杯があれなんですよ。
(色々な絵画や画像や映像を子供の頃から見てきた我々とは違います)
義松だって子供の頃に教わった古い洋画が染み付いてしまい、そこから脱することが出来なかったのではないでしょうか。
2015年に神奈川県立歴史博物館で義松の回顧展が開催されるまで、義松は忘れられた存在でした。
それくらい、画壇の流れに乗るかどうかで評価も変わってしまうということですね。
まぁこうして今は知られる存在になったのですから、今後は研究も評価もされていくことでしょう。
同じ横浜の同じ外国人に洋画を学んだ二人の日本人画家のお話でした。
どちらも一度は忘れられて、その後評価されるようになりました。
義松のほうは大分遅れましたけどね。
こうして見てくると、芸術家っていうのはちょっとしたこと、ちょっとしたタイミングで運命が大きく変わってしまうのだと思います。
もしワーグマンが印象派を知っていて、二人に教えたとしたら……
もし義松が外光派の技法を持ち帰っていたら……
いやいや、歴史にIFは禁物でしょう。
詮無いことです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。