スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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私の母の真心

デンドロビウム、ご存知ですか?
デンドロビウムというとガノタは反応するでしょうけど、今回は植物のデンドロの話です。

 

 

 

私は二十代の後半にうつになりました。
新人の頃から参加していたプロジェクトが終わり、新しいプロジェクトに入ったはいいけどシステムが全部違っていてついて行けず、新しい若い上司のいじめもあったからです。
もう職場の自席に座っているだけで苦しくて、神経科にかかって診断書を書いてもらい長期病欠することになりました。
うつになったことだけでもヘビーなのに、長期病欠という最悪の状況になってしまって、酷く落ち込んでしばらくはまともにご飯も食べられなかったです。

 

親には連絡を入れました。
父は昭和のワーカーホリックなので、母に電話で伝えました。
父なら仕事を休むなんてとんでもないと怒鳴り散らすと思ったからです。
母は私の話を聞いて、あまり大きなリアクションはせずに「お大事にね」と話は終わりました。

 

それからは病院に行く以外は何もせず、食事もろくに摂らず、毎日ゴロゴロしていました。
会社からは基本給レベルの保険金が出ると言われていたし、もしものときは親に頼ればいいと思っていたから(父は現役バリバリでした)、金銭面の心配は小さかったです。
ただ、何のやる気も出ないのです。
テレビは見たくない、ゲームもやりたくない。
「気晴らしに散歩でも行けば?」なんて、その散歩もしたくないのです。
何もしていないと時間が過ぎるのが酷くゆっくりに感じられて、それがまた辛かったです。

 

 

 

そんなある日、母が訪ねてきて。
そこに父はいませんでした、おそらく母が止めたのでしょう、自分だけが行ったほうがいいと。
母は保存の効く食料を沢山持ってきてくれました。
そしてもう一つ、デンドロビウムの鉢も持ってきてくれたのです。
結構大きくて、高さは60cmくらいありました。
小さい母がそんな重い荷物を持って、よく来てくれたものです。

 

※イメージです

母は病気のことや仕事のことは一切聞かず、デンドロには水をたっぷりあげてねとか、他愛もない話をしていました。
多少不自然な感じはありましたけど、私は久しぶりに母に会えて嬉しかったです。
そして母は長居をせずに帰っていったのです。

 

私は母が蘭を集めて可愛がっていることをよく知っていました。
当時の母にとっては一番の趣味でした。
そんな母がデンドロを持ってきてくれたのです。
母は息子が病気で仕事に行けなくなったと知って、心配でしょうがなかったのでしょう。
ただ、うつの人に対してあれやこれや質問攻めにするようなことは病状を悪化させると分かっていたのだと思います。
それでデンドロを持ってきた。
母はいつもそばにいるよと、それで息子が安心するように、そういう気遣いでした。
有り難いと思いましたね。

 

 

 

その後うつはある程度落ち着きました、仕事にも復帰しました。
でもうつには波があって、酷いときは会社に行けませんでした。
そんな状態だったから職場では戦力とはみなされず、とりあえず席だけあるような感じでした。
精神的な病気の社員に対するケアがまだない時代で、世間はバブル景気でイケイケ状態です。
「働けない者はいつまでも置いておけない」、そういう空気を課内に感じた私は会社を辞めたのです。

 

その後は仕事を転々として収入は激減、一人暮らしを続けていくことができずに親元に戻りました。
父には「うつの本を何か一冊読んで理解してほしい」と言いましたが、「そんなことは本を読まなくても分かっている」という態度で流されてしまいました。
うつというのは本当に「分かったつもり」の人が多く、誤解が常識みたいな病気です。
それなのに……
そして父はうつの人間に言ってはいけないこと、やってはいけないことを繰り返したのです。
父の言動が原因で、私がうつの薬から解放されるまでにはかなりの年月がかかってしまいました。

 

 

 

同じ親でも母と父のこの違い。
亡くなるまでみんなから愛された母と、母の死後はほぼ放置状態になった父です。
一人暮らしになって「寂しい」「会いに来い」とうるさかった父でしたが、我々子供たちは母のいない家には滅多に行きませんでした。
自業自得です。

 

母からは、人に対する真心をどう持てばいいのか、そういうことを教わりました。
私は今でも毎日母のことを思い出します。
いずれ私もあの世に行くでしょう、そのときに再会できることを楽しみにしています。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。