『新しいカレーの歴史 下』が面白いです。
新しいカレーの歴史 下: カレー、シチュー、ハヤシライス、肉じゃがの日本近代史 Kindle版 ← amazon
あんまり面白いので噛み締めるように読んでいて、まだ読了はしていません。
それでも面白い情報を沢山知ることが出来て、とても楽しいです。
今回はその中から、明治時代にカレーライスがどのように普及したのかというお話です。
※以前この下巻のイントロ部分について書いた記事がこちら。
横須賀の海軍からカレーが普及したという嘘について書いてあります。
今回の記事はその嘘に対する回答ですね。
明治時代に日本に入ってきた外国人のうち、一番多かったのはイギリス人でした。
当時のイギリスの都市部の家庭では、主婦は料理をしませんでした。
料理をするのはもっぱら雇った料理人で、地方の家庭のように親から子へと家庭料理が受け継がれることはなかったのです。
それは、当時のキッチンでの作業が過酷すぎたからです。
力仕事であるのはもちろん、料理に使う石炭ストーブは簡単に火を消してはならず、夏ともなればキッチンは灼熱地獄になります。
また石炭ストーブは頻繁に掃除する必要があって、煤だらけになってしまうのです。
それで料理人を雇いました。
料理人を雇って料理を教えるには、料理本が必要です。
料理の腕がある者を雇えば楽ですが、初心者なら一緒になって教える必要がありました。
当時のイギリスで出版されていた料理本の多くは実は、雇った料理人に料理を教えるためにあったのです。
イギリス人が日本に来たときも、日本人を雇って料理を作らせました。
そのときに役に立ったのが、日本語に翻訳した料理本です。
料理本を見せながら作り方を教えて、日本人料理人がイギリス料理を作れるように育てたわけですね。
当時の日本の識字率が世界トップクラスだったことは以前書きました。
こうしてイギリス料理を作れる日本人が増えていったわけです。
一方のフランス料理は、ホテルなどの高級なレストランでしか作っておらず、一人前になるためには数年間かかります。
イギリス人家庭で一ヶ月くらいで一通りの料理を作れるようになれるイギリス料理とは全然違ったわけですね。
カレーというのはイギリスにもフランスにもあって、帝国ホテルには当時のフランスのカレーのレシピが残されているそうです。
でも日本に広まっていったのは、当然ながらイギリスのカレーでした。
日本の発展のため、西洋の知識や技術を学ぶために呼ばれた「お雇い外国人」の数は明治7年にピークを迎えますが、その後は減少していきます。
その理由は高すぎるギャラと、勤勉な日本人が習ったことを次々と習得していったからです。
外国人が帰国してしまうと、イギリス人家庭に雇われていた日本人の料理人は失業してしまいます。
それで洋食店を始めたり、料理本を書いたりする人が増えたわけです。
明治時代の初期に東京にあった洋食店では、基本コース料理しか食べられませんでした。
それは高価であり、マナーにも厳しかったので、庶民には高嶺の花でした。
コース料理の中にはカレーライスもありました。
当時の高級食材である鶏肉を使ったカレーライスは、高級で上品な食べ物だったわけです。
大体当時の日本人の多くは、メニューを見たところでそれがどんな料理かも知りませんでしたから、料理名でのオーダーは不可能だったのです。
イギリスの都市部の家庭では余所の家族を呼んでホームパーティをするのが当たり前だったのですが、そのときに出されるフルコースの中には高級な鶏肉を使ったカレーライスが含まれていました。
カレーライス単品ではなくて、コースの中の一品としてカレーライスは普及していたのです。
明治初期の洋食店はこのスタイルに近い提供方法だったわけですね。
東京ではコース料理ではなく、オードブル(一品料理)を出すお店も徐々に増えていきます。
明治30年代に登場したビアホールは、今と違って「オードブルが気軽に食べられるお店」というのが売りでした。
コースではなく一品ずつのオーダーが可能なお店なので、庶民でも入りやすかったのです。
それから屋台です。
洋食の一品料理の屋台が明治30年代の東京に急増しました。
それらのお店では料理のコストを下げるために、高価な鶏肉ではなく庶民的な牛肉(しかもスジ肉やトリミングで出る端肉)を使ったり、北海道での栽培に成功して急増したジャガイモをやたらと入れたりという工夫もされました。
なにしろ「カレーライス」という料理名には食材の名前が入っていないので、元々入っていなかったジャガイモを入れてもいいし、具が何でも通用したのです。
またカレーライスは煮物料理であり、油を過多に使うこともなく、従来の日本の厨房にある施設で作りやすい料理でした。
そして次に来たのは、学生街の食堂です。
外食に頼る独身者が多かったのは学生街であって、都心のオフィス街はまだそこまで大規模にはなっていなかったからです。
腹をすかせた学生がゴロゴロいれば、薄利多売の商売が可能となります。
最初は屋台が出ましたが、天候に左右されず席数も確保できる店舗のほうが有利でした。
そしてこの手のお店では、安いカレーライスが人気でした。
夏目漱石の『三四郎』に出てくる淀見軒もこういったお店の一つで、大変繁盛していたそうです。
この頃に登場したのが「おとわ亭」です。
一品料理の食堂として大ヒットしたおとわ亭ですけど、その理由は学生街ということだけではありません。
当時の東京に路面電車ができたからです。
路面電車は従来の人力車や馬車鉄道より安い均一運賃ですから、都民の移動が楽になり、評判の店なら食べに行ってみようということが流行ったのです。
おとわ亭は路面電車の停車場を狙ってお店を出して成功したわけですね。
おとわ亭ではカレーとシチューが人気商品でした。
そして目玉商品はポテトコロッケ。
日本に洋食が入ってきたとき、コロッケの中身は牛肉でした。
それをジャガイモに置き換えることでコストカットに成功、ポテトコロッケは人気商品となり、やがて牛肉のコロッケは「メンチカツ」と名前を変えることになります。
またおとわ亭では洋食だけではなく和食も提供し、この洋と和を一緒くたにした「食堂」が急増していきます。
おとわ亭の成功に学んで出来たのが本郷バーであり、更にそれを真似たのが須田町食堂(聚楽)でした。
これらは日本の外食の歴史によく登場する名前なので覚えておきましょう。
途中までを私なりにまとめてみましたが、どうです、面白いでしょ?
ここまで詳しく日本の外食の歴史が書かれた本は、近代食文化研究会が初めてです。
情報には必ずソースが明記されていて、そのソースの間違いまで指摘していて凄いです。
私はまだ1/3しか読んでいませんから、これからが楽しみです。
昨日はまたカレーチャーハンを作りました。


美味しかったです。
ニンジンはやはり薄切りにしたほうが楽ですね(笑)。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。