スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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母は妻としてどう生きたか

私の亡き両親は昭和一桁でした。
今から百年近く前に生まれたわけで、正直私でも「歴史の教科書の時代じゃん!」と思うし、それを母に話すと笑っていましたよ。

 

 

 

東京だった母の一家は戦時中に北関東に疎開します。
戦後に母は見合いして、北関東のあちこちに住んでいた父と結婚します。
山の手のお嬢様と田舎の地味男の結婚ですね。
当時は男尊女卑が当たり前でしたから、母は何でも父に従っていました。
たとえば食事中に、母が味噌汁を静かに飲んでいると父は、

「不味そうに飲むなあ!」

と言って、ズルズルと味噌汁をすすったのだそう。
音を立てず味噌汁を飲む母の姿に父は違和感があったのです。
真似しようとしたけれど、このすすりが母にはどうしても出来ませんでした。
母が受けてきた躾が逆効果になるとはね。

 

そして義父母の母へのいじめもありました。
二人は母の言動になんでも反対し、仲良くしようとはしなかったのです。
これも時代で、母は黙って我慢していたそうです。
それを母から聞いた父は、必ず義父母の味方をしました。
父は両親のことを大好きだったのです。
このことを後年、母はよく父に嫌味を言っていましたよ。

 

 

 

そのうち我々子供たちが生まれ育ってきて、逆に義父母は年老いて大人しくなりました。
父は仕事にかかりっきりで、家庭のことは何もせず。
三人の子供はすっかり母の味方になっていました。
父は毎晩帰りが遅く、帰ってくる頃には子供たちは自室で勉強しているか寝ているかです。
休日になれば子供たちは友達と遊びに出掛けてしまいます。
父も父で、子供たちの誕生日も友達の名前も知らないありさまで。

 

そうなってくると、五人家族だった我が家では母派4対父派1という構図になります。
一人で五人分を稼いでくる父は立派でしたがそれ以外は丸出だめ夫なので、威厳なんてものはありませんでした。
昭和らしい「金を稼いでくるだけで十分だろ!」という態度は子供たちには不評だったのです。

 

 

 

母はやるべきことをきちんとしていたので、言いたいことを言える立場でした。
それで父に対して要望をぶつけるようになりました。
父は住まいなんてのは雨風がしのげればいいという考えでしたが、母はそんなのとんでもないという人でしたから、まともな家への引っ越しを要望。
そして新築の団地への引っ越しが決定しました(凄く立派な建物でした)。
それまでの父なら絶対にしない引っ越しです。
子供たちは狂喜しましたよ。

 

でも母も無茶な要望は出さず、賢く振る舞いました。
そうしているうちに義父母が次々と死去。
この二人も生前は、母がいなければ生活できないくらい母の世話になっていたのです。
そう、母は恨みつらみのある義父母に対しても、きちんと世話をしたのです。
そこが母の賢いところで、父は大好きな両親の世話をしてくれた母に強く言えない立場となったのです。

 

 

 

その後三人の子供たちは独立して、両親は二人だけの生活になりました。
複雑な経緯を省いて書くと、母は父に自分の部屋を所望して受け入れさせたのです。
二人で住むのに丁度いい2LDKの賃貸に引っ越して、それぞれが部屋を持つ生活になりました。
家事は分担制にして、普段はそれぞれの部屋で過ごします。
昭和一桁の夫婦としては珍しい形態だったと思います。
母は観たくもないテレビの野球や時代劇から解放されて、好きなテレビや読書を楽しめました。
どうやら山下智久のファンだったらしい(笑)
父も意外と一人でいるのが好きなタイプで、歴史の勉強などをしていたそうです。

 

こうして書くと仲の悪い夫婦に見えますけど、我々子供たちからしたらこの生活になってからの両親はとても仲が良く見えました。
何か見たいものがあれば二人で出掛けて、その話を楽しそうにしてくれたりしました。
夫婦のメリハリをつけるようになったのでしょうね。
どちらにしろ、両親にとってはお互いがいないと生活が成り立たないのです。
家事がまるで出来ない父と、お金にルーズで役所の手続きがチンプンカンプンな母。
いいコンビだったと思います。

 

 

 

そんな母が急に倒れました。
急というか、予兆はあったらしいのですが、子供たちに教えなかったのです。
白血病でした。
母はある朝意識不明になっているのを父に発見されて、緊急入院。
母の体内の血液が急激に減ってしまい、脳に血液が行っていない状態だったそうで、そのまま植物人間になってしまったのです。
我々子供たちや孫が見舞いに行っても会話は不可能で、みんな泣きましたよ。

 

その後父は母を自宅の近所の病院に転院させて、毎日病院に通いました。
我々子供たちも驚くほど献身的に母の世話をしたのです。
そんな父も前に比べたらやつれていたと思います。
そんな生活が半年続き、ついに母は帰らぬ人となってしまいました。

 

 

 

母の死後、父はしょぼくれてしまいました。
あれだけ仕事で走り回っていたのに、老後の父は人見知りが強くなり、友達が一人もできなかったのです。
唯一の話し相手である母がいなくなり、「寂しい」が口癖となってしまいました。

 

まぁそれはそれ(笑)。
母の老後は楽しそうで良かったと思っています。
たまに来る子や孫と会うのを楽しみに、普段はしたいことをしてのんびり暮らしていましたから。
父のおかげでお金の心配はなく、ある程度は趣味を楽しめましたから。
読書のほかに原種の蘭が好きだった母は、かなりの数を集めて世話してました。
暇つぶしに始めた漢字検定で、一級も取っています。
行動力があまりない母は、父にお願いして想い出の地を回ったりもしていました。
外食をほとんどしなかった母は、父と一緒に居酒屋に行ったりもしたそうです。

「食べたいものを少しずつ頼めて、食べ終わると食器を下げてくれて、こりゃ極楽だよ! 男共が通うわけだ!」

などと言っていました。

 

そんな母に十分な親孝行をできなかったのが私の後悔です。
あともし母が長生きしていたら、Googleのストリートビューなんて夢中で見ただろうなぁと思います。
母が天国で楽しく暮らしていたらいいのですがね。

 

 


 

 

日清がどん兵衛の昔のものを出しました。
50年前のどん兵衛を再現したのだそうです。

 

当時を知る身として早速食べてみました。




なるほど、なるほど。

 

まずそばは想像通りでした。
マルちゃん・緑のたぬきによく似ていて、特に麺が今とは違います。
マルちゃんのほうはあまり進化していないので、それに似ているのです。
まぁ不味くはなくて、昭和って感じです。

 

一方のうどんはかなり違います。
麺に弾力がなくぼそぼそで、今のもちもち・ツルツルの麺とは大違い。
赤いきつねよりも落ちます。
お揚げも噛み切りやすく、食感が違います。

 

あとはそれぞれのスープですね。
やはり今のどん兵衛は美味しくなったんだな、昔はこんなだったなと思いました。
これもやはり昭和の味です。

 

そばのクラシックはレトロな味を楽しみたければ有りですけど、うどんは無いな。
このうどんの麺は本当に不味いですよ。
おそらく近い内にスーパーで値崩れするでしょう。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。