「ケルンのパーシング」と言ったら、第二次世界大戦に詳しい方ならピンとくるでしょう。
ヨーロッパの西部戦線の末期、大聖堂で有名なケルンの街でドイツ軍とアメリカ軍が戦ったときの話です。
まだビデオカメラがなかった時代に、市街地での戦車戦がフィルムの映像で克明に記録されていたのです。
今回はそんな話を書きます。
第二次世界大戦の後半、1944年6月に連合軍はフランスのノルマンディー海岸に上陸してドイツへの進撃を開始します。
ドイツ軍は反撃しますが連合軍を留めておくことはできず敗走し、その後残存兵力を投入したアルデンヌの戦いで起死回生を狙ったものの失敗してしまいます。
ドイツ軍は残った少ない戦力で連合軍と正面から戦うことはできず、連合軍のドイツへの進撃を止めるためにライン川を利用します。
ライン川にかかる橋を落としてしまえば、連合軍の進撃を止められると考えたのです。
この辺のことは前にも書きましたね。
アルデンヌの戦いに関係した記事 ↓
ライン川にかかる橋の攻防の記事 ↓
1945年、ライン川にかかる橋がまだ残っていた頃の話。
ドイツのケルンは大都市で、連合軍を迎え撃つべくドイツ軍が守りを固めていました。
街の東側にはライン川が流れ、大きなホーエンツォレルン橋がかかっていました。
ここにいた正規軍は数が少なくて、国民突撃隊(民間人に余った武器を与えて腕章を付けさせただけの部隊)が主流でした。
連合軍は連日ケルンを空爆して、ケルンの街は廃墟と化していました。
そこへアメリカ軍がホーエンツォレルン橋を狙って西側から進撃してきます。
ドイツ軍はアメリカ軍が接近したら橋を落とそうとしていたのです。

ケルンと橋の攻略は、アメリカ軍の第三機甲師団が担当しました。

「スピアヘッド」("Spearhead"、「先鋒」「槍の穂先」の意)という呼び名を持つこの部隊は戦車を中心とした重編成の火消し屋であり、ノルマンディー上陸戦以来活躍していました。
そしてケルン攻略時に、スピアヘッドにはM26パーシングが配備されていたのです。
パーシングはアメリカ軍がドイツ軍の戦車に対抗するために作り出した重戦車です。
実戦経験の乏しいアメリカ軍は第二次世界大戦が始まった頃にはろくな戦車を保有しておらず、その後量産したM4中戦車シャーマンはドイツ軍のⅤ号戦車パンターやⅥ号戦車ティーガーⅠやティーガーⅡに対抗するには貧弱でした。
(M4の派生型の中には十分な火力を持つ車両もあった)
それでもアメリカ陸軍の中では、「兵器・武器は規格を統一したものを量産したほうが有利」「シャーマンは結構強い」という考え方が主流であって、より強力な戦車の開発は遅れたのです。
北アフリカの戦いでティーガーⅠにボコられた経験から試作されたのが、シャーマンの後継戦車を予定していたT20をベースにしたT25とT26です。
ノルマンディーに上陸した後に、「シャーマンではパンターやティーガーには歯が立たない」という現場の声が多数寄せられて、アイゼンハワー連合軍最高司令官は間違った主張をしていた陸軍に対して激怒。
それでもまだ間違いを認めない「新型戦車は不要派」が陸軍内に存在していました(なんでやねん!)。
その後アルデンヌの戦いでパンターやティーガーⅡの強さを目の当たりにした米軍は恐れおののき、ついに1945年1月にスピアヘッドに20両のT26E3を配備したのです。
(T26E3は4月に「M26パーシング」として正式化された)
(M26を強化したT26E4スーパーパーシングも開発されたが終戦に間に合わなかった)
米軍はケルンには三方向から進撃しました。
3月5日に米軍はケルンの市街地に入り、中心部を包囲します。
そして3月6日にケルン大聖堂へ向けて前進を開始しました。
真ん中から進撃した部隊の左翼にはパーシング一両(「Eagle7」)が、右翼にはシャーマン二両が配備されていました。
二つの通りを平行して進む作戦です。
このときに、左翼には二名、右翼には一名の従軍カメラマンが撮影しながらついていきました。
米軍は歩兵が建物内の敵兵を駆除しつつ、慎重に前進していきます。
一方ケルンのドイツ軍に配備されていたのは、パンター二両とⅣ号戦車一両と言われています。

まず左翼の先頭を行くEagle7はⅣ号戦車(単独で先行したらしい)を発見。
双方が建物の陰に隠れる中で、パーシングはⅣ号の上の建物を砲撃します。
Ⅳ号は瓦礫の下敷きとなり行動不能に、乗員は逃走。
その頃には双方の兵士が、ドイツ軍がホーエンツォレルン橋を爆破した轟音を聞いています。
アメリカ軍は橋を奪えず、ケルンにいたドイツ軍は撤退が不可能になったのです。
右翼は二両のシャーマンを先頭に、同じように前進していました。
瓦礫が邪魔なだけで大した抵抗もなく進んでいたとき、右側を走行していたシャーマンが撃たれます。
左側のシャーマンは建物の陰に入ろうとしましたが、右側のキャタピラを撃たれてしまいます。
戦車二両が撃たれたのに、どこから撃たれたのかは分かりませんでした。
ドイツ軍のパンターは、敵から見つかりにくい好位置にいたのです。

この画像のケルン大聖堂がスピアヘッドの合流地点。
手前から米軍が進撃してくるわけですけど、ドイツ軍の一両のパンターはケルン中央駅とケルン大聖堂の間の通路の下、アンダーパスの中にいたのです。
(緑の矢印が車道)
これなら暗くて発見されにくいです。
(もう一両のパンターは今回の調査では分からなかった)

シャーマンが撃たれた位置からパンターの位置を見た画像

パンターのいた位置からシャーマンの位置を見た画像
Eagle7の乗員は無線でシャーマン二両が撃たれたことを知り、敵を発見するためにカメラマンの一人と左側(北側)の建物に入ります。
前方の交差点付近まで二人が来たときに、なんと右に曲がった先にパンターが見えたのです!
アンダーパスの下にいたパンターが前進していたということです。
なぜでしょうか、パンターはアンダーパスの下にいれば米軍の脅威になり続けることができたのに……
乗員はカメラマンに「私は戦車に戻ってヤツを倒すから、君はそれを撮影してくれ」と言ってEagle7に戻り、全員に状況を説明。
ベテランの砲手は右方向にいるパンターへの攻撃を準備します。

Eagle7は主砲を右方向に向けながら前進。
一方パンターはEagle7のエンジン音に気付いたようで、こちらに主砲を向けました。
でも!
パンターの乗員はEagle7のいる通りにⅣ号がいることを知っていました。
エンジン音が(既に行動不能になった)Ⅳ号のものなら、パンターは撃つわけにはいきません。
そしてパンターの乗員は、角から現れたEagle7のシルエットを見てもそれが何なのかが分からなかったようなのです。
そりゃそうだ、ドイツ軍にとっては初見ですからね。
一方のEagle7の砲手は、車両が停止するのも待たずにパンターを撃ちました!
Eagle7の強力な90mm砲がパンターを撃破!
建物内にいたカメラマンはEagle7の初弾を撮り逃しましたが、後方にいたカメラマンが撮影していました。
そして建物内のカメラマンはすぐに撮影を開始し、二発目、三発目と撃たれるパンターを撮影しました。
そこにはパンターから逃げ出す乗員の姿も写っていたのです。
こうしてケルンの戦闘は概ね決着がつきました。
両軍はライン川をはさんで撃ち合ったりしていましたが、レマゲンの橋を渡った米軍が4月にライン川の東側を制圧しています。
この戦闘が有名なのは、兎にも角にも三名のカメラマンが状況を撮影していたからです。
それもスチルだけではなくムービーでね。
二両のM4が撃たれて乗員が逃げ出すところも、負傷した乗員を救助に行くところも。
Eagle7がパンターを撃破するところも。
令和の今になっても状況がよく理解できるのはカメラマンのおかげです。
このケルンの戦闘については書籍も出ているのです。
(HJ社が翻訳した日本語版は誤訳が多いらしい)
youtubeには複数の動画がアップされています。
私がその中で分かりやすいと思ったのがこちら。
ドキュメンタリーとしてきちんと編集されています。
ナレーションは英語ですけど、日本語の字幕を表示させることが可能。
おヒマなら是非。

この画像 ↑ の張り紙は、
"Fight seers keep out! Beyond this point you draw fire on our fighting men."
(戦闘を見物する者は立ち入り禁止!これより先は味方の兵士が敵の標的となる恐れがあります。)
と書いてあります。
これはまだライン川をはさんで撃ち合っている頃に設置されたもので、記念品欲しさや記念撮影のためにウロウロする米兵が多かったらしいです。
この張り紙は戦闘が終結しても撮影名所として残っていたそうですよ。

というわけで、長くなりましたが戦争のことを書きました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。