スプーキーじいさんって何考えてるの!?

貧乏・暇なし・不健康。一人暮らしのじいさんのブログです。このブログに広告とか金儲けは入っていません。スターは一個だけ付ける主義です。税込表示です。

ドーリットル空襲とは

今回はドーリットル空襲の話です。
「ドーリットル」と言ったら私より上の世代は「ああっ」って言う程ご存知のことと思います。
これは太平洋戦争中に初めて日本本土を爆撃したアメリカの爆撃隊の指揮官の名前です。
日本海軍による真珠湾攻撃は1941年(昭和16年)12月8日(現地時間で7日)、日本陸軍によるマレー半島への上陸も同じ日になります。
この開戦序盤の日本軍イケイケ状態のときに、アメリカ軍の爆撃機が東京などを空襲するという衝撃的な出来事があったのです。

 

 

 

アメリカでは上記の日本軍の攻撃と、その後日本海軍が北アメリカ大陸の西側に潜水艦隊を配備して行った通商破壊(輸送船などを攻撃すること)・陸上への砲撃によって大混乱が起きていました。
戦果はともかく、心理的な影響は絶大だったのです。
極東のよく分からない日本という国がアメリカに攻撃を仕掛けてきていて、もしかしたら西海岸に上陸してくるかもしれない!
今のように情報が一瞬で世界中を駆け巡るようなことはなく、戦争中ですから政府や軍部は情報統制を行っており、情報の少なさからアメリカ人の間には重い不安が広がっていたのです。
なにしろアメリカって国は、他国から侵略されたことがありませんからね。

 

これは一般国民に限らず、政治家や軍人も同じでした。
ルーズベルト大統領なんかは「もし日本軍が西海岸に上陸したらロッキー山脈で食い止めろ!」と作戦立案の指示を出してたし。
そんな中で起きたのが「ロサンゼルスの戦い」です。
実際に日本軍が攻めてきたわけでもないのに、誤解から高射砲を撃ちまくり(千発以上撃ったとされる)、民間人が5人も亡くなったのです。
映画『1941』のモデル、こういうときの謝罪と補償が気になる

 

以前書いたニイハウ島事件の影響で、日系アメリカ人の強制収容が始まったのもこの頃のこと。

とにかくアメリカ人の日本を恐れる気持ちは強くて、ロサンゼルスの戦いのときも「日本軍に信号を送った」として多数の日系アメリカ人が逮捕されています。
送る相手もいないのに……

 

 

 

アメリカの政治家や軍人は、アメリカ中に厭戦気分(えんせんきぶん、戦争を嫌い早く終わるよう願う空気のこと)が広がることを恐れました。
アメリカ海軍はチョコチョコと日本軍の拠点を攻撃していましたが、もっとデッカイ花火を打ち上げて日本にギャフンと言わせる必要があったのです。
それで全米に「日本なんてやっつけろ!」という空気を広げたい。
そこで考案されたのが、日本本土空襲です。

 

当時の軍用機では、アメリカの勢力圏であるハワイやミッドウェーなどから日本まで空襲に行くことは不可能でした。
ということは、航空母艦で日本に接近して爆撃機を発艦させる必要があります。
でもまだ日本軍は元気一杯ですから、空母艦隊を日本に接近させるだけで大変なリスクがあるわけです。
せっかくの空母が沈められたら目も当てられません。
それに艦上爆撃機の航続距離も知れたもの。
この時点でそもそも無茶なのです、実現させたらそりゃ大したものです。

 

 

 

そこで軍部では「航続距離の長い陸軍航空隊の爆撃機を空母に載せたらいいじゃないか」というとんでもないアイディアが生まれます。
こんなマンガみたいなアイディアが本当に採用されて、作戦は動き出します。
作戦の指揮官に任命されたのは、ジェイムズ・ハロルド・ドゥーリトル(James "Jimmy" Harold Doolittle、MITを出ている)中佐です。
ドゥーリトル中佐はこの無茶な作戦で特攻して戦死することを覚悟していた
アメリカ海軍の空母ホーネットを使うことが決まり、ホーネットから発艦できる爆撃機を選ぶことになりました。

ホーネット(USS Hornet, CV/CVA/CVS-12)
太平洋戦争では大活躍をしている

厳しい条件から選ばれた爆撃機は、ノースアメリカン B-25「ミッチェル」でした。
ホーネットからの発艦は可能でしたが、当時の艦載機から比べたら巨大な飛行機ですよ。

ノースアメリカン B-25 ミッチェル
終戦直前にエンパイアステートビルに衝突したことがある

日本本土爆撃のために16機のB-25からは機銃・無線機・照準器などが外され、代わりに燃料タンクが増設されました。

 

ここでこの作戦をご存じない方は、「大きな爆撃機を空母から発艦させて、日本を爆撃したらまた空母に戻ってくる」と思ったでしょ?
でも違います。
大きなB-25は空母の格納庫には入らず、飛行甲板に並べるしかありませんでした(クレーンで載せた)。
そして前から順番に発艦させたわけですけど、そんなものを着艦させるだけのスペースはなかったのです。
一機着艦させては海に捨てるという手はあったのかもしれない

日本に向かうドーリットル隊
飛行甲板に比べてB-25がいかに大きかったのかが分かる

それに日本の近海に虎の子である空母艦隊を置いておくだけでとんでもなくリスキーであって、これらを失うことは許されませんでした。
空母艦隊はドーリットル隊を発艦させた後は、すぐさま引き返していったのです。
4月25日に真珠湾に帰投している

 

 

 

1942年(昭和17年)4月、ホーネットはサンフランシスコを出航、護衛に空母エンタープライズ、巡洋艦5、駆逐艦7がつきました。
ドーリットル隊以外のほとんどは作戦も目的地も知らされていなかった
当初は日本本土への爆撃は夜間を想定していました。
でも日本に近づく空母艦隊は、日本の小型船舶に何回も遭遇。
敵軍を警戒するために、日本海軍は小型の船舶を多数派遣していたのです。
空母艦隊はこれを処理するのに時間がかかってしまい、予定を変更して爆撃は午前中になりました。
中には無線で空母艦隊の襲来を報告した船もあったが、日本の軍部には緊張感が足らず、ろくな迎撃はされなかった

 

4月18日(土)8時15分。
ついにドーリットル隊はホーネットを発艦しました。

ドーリットル隊発艦の様子
大きなB-25を発艦させるためにホーネットを風上に向けて全速前進させたのだろう

16機のB-25はバラバラに飛んで、東京都、神奈川県、愛知県、兵庫県を爆撃しました。
無差別爆撃ではなく軍事目標を狙った爆撃で、そのためにはモー・バーグ(モーリス・「モー」・バーグ、Morris "Moe" Berg、メジャーリーガーでありながらスパイだった)が聖路加病院の屋上から撮影した写真が使われました。
B-25は低空から侵入しましたが、混乱の中で当初の目標ではない所に爆弾を落とした機も多かったです。
また機体に残されていた機銃で地上にいる人達を撃ったりもしました。

 

日本軍の反応は遅かったです。
海軍は複数の艦艇を出しましたが、アメリカの空母艦隊を捕捉できず。
迎撃に関しても「日本が空襲されることはないだろう」という楽観がありました。
また空襲されるとしても「高高度からの爆撃だ」という思い込みもあり、折角B-25を発見しても友軍機だと誤認することもありました。
迎撃に上がった少数の戦闘機はB-25に追いつけず、たまたまB-25を発見した機には実弾が積まれていなかったりして、高射砲も小銃も一発も当たらず。
B-25を落とすどころか、迎撃に上がった後で不時着して大破した機体もあったとか。
それと、関西の防空を担当していた陸軍航空隊はまったく一切対応できなかったそうです。

 

 

 

※東條英機総理は飛行機で水戸に移動中に至近距離でB-25とすれ違っていて、唯一それを認識して「あれはアメリカだぞ!」と叫んだそうです。東條は水戸に到着してから東京が空襲されたことを知ったとか。

 

※以前国籍マークの話を書きましたけど、このときのB-25には1919年から1942年に描かれていた「中心に赤丸があるタイプ」が描かれていました。低空で飛んでくるB-25にこの国籍マークが描かれていたのを見て、日本軍機だと誤認して手を振る一般人が多数いたそうです。

 

日本の被害。

・死者87名
・重傷者151名
・軽傷者311名以上
・家屋400戸

結果として軍関係の施設などではなく、民間人とその家屋が被害に遭ったのです。

 

 

 

ではドーリットル隊はどうなったのか。
爆撃後のドーリットル隊は、そのまま本州を横断して大陸に向かいました。
作戦前にアメリカは中国とソ連にドーリットル隊の受け入れを要請していましたが、日本と中立条約を結んでいたソ連は拒否。
中国の蒋介石も日本軍の報復を恐れていて、非協力的だったそうです。

 

初めての大陸へ誘導もないまま飛んでいったドーリットル隊のほとんどは、中国に到達してから機体を捨ててパラシュート降下しました。
ドーリットル隊の内、戦死が1名、行方不明が2名、日本軍に捉えられたのが8名でした。
B-25を全機失ったドゥーリトル中佐は自身が軍法会議にかけられると思い悲しんだらしい
中国で無事だった隊員は蒋介石の晩餐会へ招かれた後、中東経由で帰国しています。
一機だけはソ連のウラジオストックに不時着して、隊員は拘束。
隊員はソ連各地へ移送された後にイラクへ出て、作戦の一年後に帰国しています。

 

日本軍の捕虜となった隊員8名は、非戦闘員への攻撃を理由に戦争犯罪人の扱いでした。
昭和天皇は穏便な処置を望みましたし、東條英機もその意向を汲みましたが、結局3名に死刑判決が出てしまいます。
10月13日、3名は上海で処刑されました。
残った5名の内1名は病死し、4名は終戦時に釈放されました。

 

 

 

日本軍が3名の隊員を処刑したことは、一年後にアメリカで報じられました。
アメリカ政府はこのことを利用し、日本人は野蛮人だ、東條英機は血に飢えた独裁者だと宣伝し、映画まで作られます。
この影響で当時の米兵の半数は日本人を皆殺しにすべきだと考え、世論調査でも13%のアメリカ国民は同じ考えだったそうです。
こうした日本人に対する敵意は戦後も長く残ったとか。

 

日本では当然ながら情報統制が行われましたし、大本営は複数のB-25を撃墜したと発表しましたが、国民の多くは日本軍が一機も撃墜できなかったことを知っていたようです。

 

この後にミッドウェー作戦があるわけですけど、この作戦自体はドーリットル空襲より前から立案されていました。
軍内部ではこの作戦に反対する空気があったそうですが、ドーリットル空襲によってその空気は逆転したとか。

 

16機の爆撃機による日本本土爆撃作戦は、このように様々な影響を残したのです。
ちなみにドゥーリトルは戦争中に中将にまでなり、1993年に96歳で亡くなりました。

 

 

 

戦争っていうのは本当に嫌なものですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。