スプーキーじいさんって何考えてるの!?

貧乏・暇なし・不健康。一人暮らしのじいさんのブログです。このブログに広告とか金儲けは入っていません。

うちの母はユニーク

今週のお題「お弁当」

 

今回はカレーの話は置いといて(週末に書く予定)、母の話を書きます。
読者になっているブログにお弁当の話が書いてあったので、急に思い出しまして。

 

 

 

私の亡き母は、昭和一桁です。
今もし生きていたとしたら、90代前半です。
これを読んでいるみなさんからしたら、物凄く古い人間だと感じるかもしれません。
ただうちの母は、ユニークな人でね。
この「ユニーク」には、「面白い」と「唯一無二」の二つの意味があります。

 

母は、東京の山の手で生まれ育ちました。
母の両親は明治時代の人間で、母を厳しく躾けました。
母はそれが嫌で嫌で、戦争中に北関東に疎開してそのまま住んでいたときに持ち込まれた見合い話に飛びつき、相手のことなんてろくに知らないままに結婚。
北関東の田舎者の父と暮らしながら、仕事の関係でしょっちゅう引っ越していたそうです。
そして姉が生まれ、私が生まれて、関東東海を一家でウロウロしてたわけです。

 

母は若い頃から油絵を習っていて、結婚後はずっとお休みをしていたのを、私が中学生になった頃から再開。
それ以前も小さい私の手を引いて、展覧会にはよく行っていました。
私がアートを好きなのは、確実に母の影響です。
その頃、家族の食事の支度を済ませた母は、リビングの壁にキャンバスを立てかけて、前に置いた座布団に正座して絵を描いていて、テレピン油の香りがしたものです。
(私はなぜ母に油絵を習わなかったのだろう?)

 

 

 

さて、私の通った公立の中学校には給食がありました。
でも主食は出してくれないから、みんな家からご飯を詰めたお弁当箱かパンを持参していたのです。
変わってますよね。
私はご飯の上に塩昆布を撒いたのが好きでね。
お昼になると塩昆布の味がご飯に染みていて、それだけで美味しく食べられたものです。

 

ある秋の日。
中学校の教室でお昼の準備が整い、みんなで「いただきます」をした後のことです。
私がお弁当箱のフタを開けてみると、そこにあったのは塩昆布ご飯ではなく、栗ご飯でした!

「ええ!?」

ビックリ仰天ですよ、そんなご馳走が入っているとは思ってもいませんから。
昨日の夕食が栗ご飯だったわけではないですよ。
「なんで?」と思って栗ご飯を見ていると、隣の子が気がついて騒ぎは教室中に広がっていきました。

「えー、いいなー」
「美味しそう!」
「栗一個くれよー」

なんて声に囲まれて、人気者になったような気分だったことをここに告白します。

 

担任の先生が見に来て言うには、

「おいスプーキー(当然本名で)、栗ご飯って作るの大変なんだぞ」

だそうで、今みたいに剥いた栗なんて売ってない時代の話です。
そうです、母は私を驚かせようと、早起きして栗を剥いてコソコソ栗ご飯を作っていたのです。
そしてこっそりお弁当箱に詰めてフタをして、何気に私に渡したと。
そういえばその日の朝食は珍しく食パンだったなぁ。

 

私は嬉しくて、栗ご飯を美味しく食べて、母に感謝しました。

 

私が家へ帰って母にお弁当箱を渡して、

「ビックリしたよ」
「みんな驚いてて、羨ましがられたよ」
「なんで栗ご飯だったの?」

なんて言うと母は、

「さあねー」

なんて言うだけで、台所へ行ってしまいました。

 

そういう人なんです、母は!
自分が仕掛けたイタズラが、まるで時限爆弾みたいに見事成功するとにんまり……ってね。
そのためには早起きや手間を惜しまないのです。
おそるべし。

 

 

 

もう一つだけ。
母はお金の管理がまるでダメな人でした。
それは若い頃からずっとで、私が子供の頃も一緒で。
父がしっかりしていたからいいようなものの、そうでなかったら大変ですよ。
給料日が近づいてくると、夕食が段々と貧相になっていくのです。
カレーライス、炒飯、ミートスパゲッティ……挙句の果てにはおむすび!
子供だったから喜んで食べてましたが、晩ご飯がおむずびって一体(笑)。
それで給料が出ると、すき焼きなんてしてね。
後日、私が大人になってからは、この話で盛り上がったものです。

 

 


 

 

最近仕事の日の昼食と夕食は、こんなんばっかです。
今通っている職場の周辺に飲食店があまりないのです。

 

 

 

なので帰りのコンビニでサラダやサラダチキンを買って晩酌をしています。

ここで唐揚げなんか食べていたら、体がおかしくなってしまうでしょう。
もっとお店が多い街で働きたいです。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。