色々な人と会って話していると、こういうことってありませんか?
たとえば私がカレーが好きだと言ったとしてですよ。
それを聞いた人が「私がどれだけカレーを好きか」というエピソードを求めてくるのです。
やれ「毎日カレーを食べている」だの、「家にカレーが山程ある」だの、「カレー店のことなら何でも知っている」だの、そういうエピソードです。
いや、私だってそこまでマニアじゃないし!
あ、カレーは毎日食べてますがね(笑)。
これを私流に解析してみると。
こういうことを聞く人って、レッテルが欲しいだけなんですよ。
人と出会ったときに、その人の特徴をつかんで印象付けたいということですね。
※レッテルはオランダ語の「letter(文字の意)」から。意味としては英語のラベル、レーベルですが、日本ではそれに音が似ていることからレッテルが使われるようになっただけで、オランダ語の意味とは違います。物の表面に書いたり貼ったりする、中身を説明したもののことです。
初対面の人との間で、自分のことを話したり相手のことを聞いたりするのは普通のことです。
でも上記のような、マンガチックなエピソードを求めるのはちょっと違う。
短時間で無理に人のことを極端にしたがる人が結構いるのです。
ではなぜこういう人は極端なのか。
私流の分析では、そうすることで楽をしたいからです。
スポーツなんかで体を動かすと、筋肉だったり心肺機能を使うので疲れます。
脳だって同じで、色々考えたりすれば疲れるのです。
だから人は、自然に脳が疲れないようにするわけです。
毎日同じことをするのもコレですよ。
お昼はいつもこの店でこの料理っていうのは、そうすると脳が楽だからです。
毎回新規開拓するのは、色々考えないといけないから脳が疲れるのです。
(私はこの「脳が疲れる作業」が大好きですけどね)
初対面の人と会ったとき、その人と多くの会話をして理解していくようなことも脳が疲れます。
だから楽をしたくて、極端な特徴をでっち上げてペタッと貼って記憶の奥にしまっておく。
後で思い出すときも、「あの人はカレーマニアだ」とすれば簡単です。
その人のことを第三者に話すときだって同じ。
それで久しぶりに会ったときに、別のレッテルを持ち出して引かれたりしてね(笑)。
もう一つあるとすれば、それはマニア = 偉いという価値観でしょう。
マニア = 濃い人 = 一つのジャンルに拘りがあって頑張ってる人 = 偉い人。
「あの人毎日カレーばっかのカレーマニアなんだよ」って盛りたいのでしょう。
そうすれば自分まで偉くなったように錯覚できるのかも。
「私の周りにはこんなマニアもいる、あんなマニアもいる」ってね。
別に一々会話を盛り上げなくてもいいのに。
今の日本って一億総マニアですから。
でもここに書いた「マニア」って、意味としてはただのファンやブロガーであって、マニアではないことがほとんどですけど。
本物のマニアっていうのは、カレーを極めたくて東大の大学院に行って在学中に起業して本を何冊も書いて今でも頻繁にインド辺りに行っている印度カリー子さんみたいな人のことですよ。
私なんかじゃない。
あと人のことを決めつけるのとは別に、自分で「マニア」や「オタク」っていうレッテルが欲しい人もいると思います。
自分のことを説明するときだって、レッテルがあれば楽ですからね。
私なんかは絶対言えないです、「私はカレーマニアです」なんて恥ずかしくて!
私は、初対面なのに私のことをマニアックに仕立てようとする人は苦手です。
あんたの脳に楽をさせるために、私のことを勝手に決めつけるなよ。
私はそういうレッテル貼りをする人には近づかないようにしています。
(中身がスカスカな自称マニアや自称オタクも同様)
もっと簡単に、その場の会話を盛り上げたいだけだとしたら下劣です。
もし私が何かに拘っている人に会ったとして、ろくに話も聞かずに「すげー!」「すげー!」って言ってたら嫌でしょ、そんなのうるさいだけです。
実に馬鹿っぽい。
もう一つは、世間で大ヒットしたもののことを知らない人を低く見る人です。
たとえば映画『国宝』。
物凄い大ヒットしたことは聞いてますが、私は観ていません。
あの映画に関しては興味がなくて、興味があるとしたら原作の小説のほうです。
以前、吉田修一の本は何冊か読んだことがあるので。
『国宝』に限らず、大ヒットしたものを知らないというと「えー!?」っていう人がいるんですよ。
自分は知ってるのにあなたは知らないの? ウソでしょ?
こんな感じの人がね。
更に、「観といたほうがいいよ」なんて押し付けてきたりして。
こういう人は自分を神様のように正しいと信じ込んでいるようです。
映画で言えば、私は大ヒットしたものってあまり興味がありません。
大ヒットするということは、その映画には普遍性があるのです。
でなければ大勢が観て喜ぶはずがありません。
誰でも笑える、誰でも泣ける、そういう作品も嫌じゃないけどもういいのです。
私はもっと濃い味付けのゲテモノを求めていますから。
観る前の想像通りの映画なら、別に私がわざわざ観なくてもいいです。
映画でも音楽でも小説でも料理でも、人にはそれぞれ好みがあります。
もう『およげ!たいやきくん』(1975年)や『ルビーの指輪』(1981年)の時代じゃありません。
(「そうね、誕生石なら胆石ね ♪」なんて流行りましたな)
それなのに、「人それぞれ」を理解できない人がこんなにいるなんて。
「個性が大事」「ダイバーシティの時代」なんて言われても、やはり日本は農村から出来た国ですから。
多くの日本人は「みんな一緒」がいいのではないですか。
大晦日に家族揃って紅白を観るようなことが大好きなのではないですか。
考えてみれば、みんなで同じヒット曲を聴いていた時代っていうのは音楽に関して脳はとても楽だったわけです。
「これ聴いとけ」「はい」で済むのだから。
そしてそんな時代でも、みんなが聴かない音楽を追い求める人はいたのです。
そういう人たちの中には、本物のマニアもいたのでしょう。
(ネットで多くの作品を楽しめる今はいい時代ですよ)
(逆に入手するために歩き回っていた時代も好きですが)
この「みんな一緒がいい派」と「新しい物を追い求める派」が相互に理解し尊重し合う世の中が私の理想ですけど、中々そうはいかないようです。
昨日は久しぶりに松屋に行きました。
基本の牛めし(並、¥460)を食べました。

あいかわらず安いのに美味しいのです。
ご飯も変わらずよかった。
ご飯が酷くなってしまったのは、私の近所のすき家や吉野家だけなのでしょうか。
あの手のチェーン店にバラツキがあるのも不自然な気はしますが、実際はどうなのか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。