スプーキーじいさんって何考えてるの!?

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水戸黄門ってどんな人?

今回は水戸黄門の話です。

 

 

 

水戸黄門という呼び名

イントロは黄門様について、ちょっと堅い話から。
徳川光圀(とくがわ みつくに)のことを「水戸黄門」と呼ぶのは、諱(いみな)を呼ぶのを避けるためです(本名を呼ぶのは恐れ多いということ)。
藩名の「水戸」と、中納言を意味する唐名(日本の官職名と同等の中国の官称)の「黄門侍郎(こうもんじろう、実際に黄色い門があった)」の「黄門」をくっ付けて作られた呼び名を使うのが一般的でした。
この意味からすれば、水戸藩の藩主はみんな水戸黄門ということになりますが、光圀のことを指すのが普通です。
(「水戸藩のお尻の穴」ではない……)

 

 

出生とその後

黄門様のお母様(久子)は、水戸藩の初代藩主・徳川頼房(とくがわ よりふさ)の側室ではなかったけど、その母親が奥付きだったので一緒に奥に出入りしているうち、頼房に可愛がられてまず兄の松平頼重(まつだいら よりしげ)を懐妊。
しかし頼房から堕胎するよう命じられてしまいます(久子の母親や正室のお勝が相当怒ったらしい)。
色々あって、結局久子は江戸でこっそり頼重を産みました。
次に久子が光圀を懐妊したとき(またかい!?)も同じように隠されて、水戸の家臣のお屋敷で出産したそうです。
(久子以外にも同じように頼房の子を産んだ者がいたが、堕胎は命じられていない……何故?)

 

このような出生の秘密があって、その後光圀は藩主を相続するわけですけど、頼重という兄がいるのになぜ自分が…… という、自身の複雑な立ち位置への想いがあって、若い頃は相当荒れていたそうです。
悪い仲間とド派手な格好で街をうろつき、怒れば刀を振り回し、吉原に通い詰め、辻斬りまでやったとか(今の中学生くらいの年齢ですよ!?)。
まぁそれで怒られたりしたわけですけど、今の高校生くらいの頃に司馬遷(しば せん)の『史記(しき、中国の歴史書)』の中の『伯夷列伝(はくいれつでん)』を読んで感動して、勉学に励むようになりました。

伯夷というのは大昔の中国の王子のこと。父親の遺言から弟(三男、伯夷は長男)に王位を継がせるため国を出たら、その弟は伯夷が継ぐべきだとこれも国を出てしまい、結局次男が王位を継ぎ、伯夷と三男は大変な苦労をしてしまう

 

堅い話を長々とすみません。
若い頃にはヤンチャだった黄門様ですけど、三十代の頃に父の頼房が死の床にあったときには自ら看病し、頼房の死後三日間は何も食べなかったりとか、当時は当たり前だった家臣の殉死(じゅんし、後を追って死ぬこと)をやめさせたりもしたそうです。
「父のために死ぬのではなく、私のために生きろ」と言ったとか。
一度ヤンチャしてから勉学に励んだ人の強さを感じてしまいます。
この辺の話を調べていると、ドラマにしたら面白そうですね。

 

 

 

食の探求者

黄門様といえば食の探求者であることも知られています。
餃子やチーズを日本で初めて食べた人と言われていますし(ラーメンは惜しくも二番目)、肉があまり食べられていないご時世で、しかも生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい、動物・魚・虫・鳥・赤ちゃんや病人を守れという極端な悪法)まで出ているのに、牛肉、豚肉、羊肉を食べ、ワインも飲んでいました。
中国人シェフから麺料理を教わり、うどんを使ったオリジナル料理の「後楽うどん」を開発し、お客様や家来にふるまったこともありました。

 

ところが。
キュウリがダメだったんですね、それで、
「毒多くして能無し 植えるべからず 食べるべからず」
と書き残しています。
これには理由があって、当時のキュウリと我々が食べているキュウリは別物だったのです。

 

紀元前四千年のメソポタミアで栽培されていたキュウリは東西へ伝わり、
中国へは南北二つのルートから入って、日本に伝わったのは南からのものでした。
北ルートの瑞々しいキュウリと比べて南ルートのキュウリは水分が少なく、しかもこれを黄色くなるまで完熟させたうえで、漬物や酢の物にして食べていたのです。
(「黄色い瓜」だからキュウリ)
このキュウリは苦味が強く、また戦国時代の医者が書いた本の中で毒性があるような記述もあり、黄門様も嫌ったという。
今のキュウリは幕末に江戸で改良された品種だそうですよ。

 

 

 

大日本史

黄門様の時代には戦(いくさ)なんてなかったから、別の形で名を残そうと黄門様は考えて、『史記』を読んだ影響もあり、日本の歴史をまとめた本を作ろうと思い立ちます。
彰考館(しょうこうかん)という史局を作り、日本中の資料を集めるために全国に史局員を派遣するようになりました。
こうして作られた『大日本史』は、黄門様が生きている間に基礎的な部分は出来ていたものの、完成したのは明治時代になってからという大作でした。

 

この彰考館の総裁だった
佐々 宗淳(さっさ むねきよ)と
安積 澹泊(あさか たんぱく)がそれぞれ、
助さん(佐々木 助三郎、ささき すけさぶろう)
格さん(渥美 格之進、あつみ かくのしん)
のモデルとされています。

 

 

 

前の副将軍

黄門様は水戸で生まれ、4歳の頃に水戸城に入場、その直後に小石川の藩邸に移ります。
藩主時代も江戸に住んでいました。
水戸藩は唯一参勤交代をしなくていいと認められていたので、多くの水戸藩主はほとんどの期間を江戸で過ごしたのです。
(黄門様は11回も帰国しているが、経費は大変だったと思われる)
黄門様が訪れた地というと、水戸藩と江戸と、その間と、今の神奈川県と千葉県くらいだったそうです。

 

江戸の町民からすると、常に将軍様のそばにいる水戸藩主は頼もしい存在であり、それで勝手に「副将軍」と呼びました。
テレビドラマ『水戸黄門』の中で格さんが、「前(さき)の副将軍」と言いますが、これは「隠居した水戸藩主」という意味ですね。

 

幕末に講談として作られた『水戸黄門漫遊記』が今の『水戸黄門』に近い形になったのは明治になってからで、最初は助さん・格さんは登場していません。
黄門様が領内巡検をしていたことと、彰考館の史局員が全国に派遣されたことが、講談では諸国漫遊にスケールアップされたのかもしれません。
まぁそれにしたって、馬や籠(かご)を使っていた黄門様が徒歩で移動とはトホホですけどね。
(それじゃあ誰も偉い人だとは思わないよ)

 

 

 

ちなみにこんなお顔でした(意地悪そう(笑))。
いかがでしたか、水戸黄門のお話。
歴史も、見方によっては結構面白いと思いませんか?

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。