正直、見つけるまで忘れていた。メガネケースに入っていた、女物のメガネだ。私が年末だからって大掃除をしていたときに、棚の奥で見つけたものだ。まだあったんだ。一気に蘇る、あの頃のこと。
随分前になる。自分が中年と呼ばれることにすっかり慣れきった頃に、一人の女性と知り合った。その女性を、仮にNと呼ぼうか。Nと過ごした、楽しくも苦い日々。もうすっかり忘れていたよ。
Nと私はネットで出会った。同じ「自転車で街ブラをするのが趣味」な人として、ある掲示板で一緒になったのが最初だ。その掲示板で私とNは、不思議と馬が合った。他のメンバーをそっちのけにして、二人で盛り上がることがよくあった。その流れで、二人だけで走りに行こうという話になり(こっそりメアドを交換した)、初めてオフで会った。
爽やかな初夏に待ち合わせをした。
「あ、はじめまして!」
「はじめまして!」
「あははは、こんな感じの人なんだねー」
「好みじゃなかったですかぁ?」
「いやいや、そんなことないよ、タイプタイプ」
「本当かなぁ?」
Nは中年の女性で、身長は並だけど水泳をやっているとかで体にはガッチリ感があった。丸いショートカットがよく似合い、メガネが知的に見えた。
その日はNの希望で、日本橋・銀座エリアをぶらぶらした。Nは中々の健脚で、街のこともよく知っていた。ルールとマナーをきちんと守る性格も、私と合った。そしてそのままの勢いで、二人は付き合うようになった。
私の一人暮らしの部屋に、Nは週末毎に来るようになった。土曜日の昼頃に待ち合わせして、街ブラをして買い物をした。東京の都心から埋立地や大きな川沿いのサイクリング・ロードまで、色々な場所に二人で行った。
その後は私の部屋に戻って晩酌をして、そのまま一泊。日曜日の朝、私が先に起きてご飯を炊き、魚を焼いて、二人で朝ご飯を食べた(Nは飲んだ翌朝は辛いタイプで、私は二日酔いしない体質だった)。
「いつも悪いね、朝ご飯作らせちゃって」
「いいよ、作るっていってもご飯炊いて魚焼くだけだし、みそ汁はインスタントだし」
「でも嬉しいよ、白菜の浅漬けだってあるし、私これ好き」
「そりゃ良かった」
午前中は部屋でまったりして、お昼は近所で食事して、そこでバイバイするというのがパターンだった。
楽しかった。同じ趣味の男女が付き合うと、こんなに楽しいのかと感じたことを思い出す。あんまり楽しいので酷いときは、月曜日の朝まで二人でいて、二人して自分の職場にズル休みの電話をすることもあった。次の街ブラはどこへ行こうか、検討することも楽しみになっていた。私は週末にNと楽しむために、家事を平日の夜に全部片付けるようになった。
しかし、熱かった恋心は、やがて冷める。ちょっとしたすれ違いから、二人の心は離れていった。まるで、さっきまで美味しそうに見えた熱々の料理が、冷めて残飯や生ゴミに変わってしまうように。
これで二人が二十代なら、そうなる前に勢いで結婚していたかもしれない。でも中年の二人は別れを選んだ。いい歳をして一人でいる人間は、余程のことがなければ自分一人の生活を捨てることはない。
Nは私の部屋に来ることはなくなり、連絡は絶えた。もう肌寒い季節になっていた。
今回見つかったメガネは、間違いなくNのものだ。そうだ思い出した、二人が別れた直後に私は部屋でこのメガネを見つけたのだった。Nが置き忘れたものだから、届けてあげなければいけないと思ったが、私はNの住所を知らなかった。メールで連絡することは、別れた直後だけにできなかった。どうしようかと思ったけれど、
「このメガネが必要ならば連絡を寄越すだろう」
と思い、部屋にあったメガネケースに入れて棚の奥にしまい、そのまま忘れたのだった。
今回見つかったメガネを、私は自分でかけてみた。大した意味はない、ただかけてみた。そして驚いた。Nのメガネは、度の入っていない、伊達メガネだったのだ。Nは視力が悪いわけではなかったのだ。
ここで私の記憶が一気に蘇った。Nとオフで会う前、ネット上での他愛もない会話。
「どんな女性がタイプなんですか?」
「そうねぇ、メガネをかけてる人かな」
「えー、メガネっ娘が好きなんだー!」
「もうね、メガネかけているだけで一万点くらい加点しちゃうの」
「うわー、面白ーい!」
Nは、私に気に入られるようにと伊達メガネをかけて来たのだ、そうに違いない。Nと初めて会ったときに、Nがメガネをかけていたことを喜んだ自分がいたことまで思い出した。
そして、Nは私との別れを決めて、このメガネを部屋に置いていった。もう必要なくなったから。
それなのに、Nのメガネを大事にメガネケースに入れて、ずっと持っていた私。何という間抜け。何という無神経。Nよ、今やっとわかったよ。やっと今になって。
年末の大掃除の中で、Nが仕掛けた時限爆弾が破裂したようだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。