スプーキーじいさんって何考えてるの!?

貧乏・暇なし・不健康。一人暮らしのじいさんのブログです。このブログに広告とか金儲けは入っていません。

印象派の誕生

前から書いているとおり、私はアートが好きです。
中でも一番好きなのが西洋絵画で、色々と見てきました。
ただ詳しくない人にとっては、興味を持ったとしてもアートってちょっと敷居が高いのかもしれません。
そういう話題を出そうとしても引かれることはよくあります。
何の知識もないとしても、ただ見て感じて楽しめるのがアートのいいところなのですがね。
別に知識がなくても馬鹿になんてしないし、聞かれれば教えてあげるのですけど。
あと美術館に行くと、長時間立ちっぱなしでアートを見るわけですよ。
(私の場合は大体三時間くらいかかります)
それもあって、誰かを誘ってアートを見に行くということはほぼありません。
(一人で集中したいという理由もあります)

 

おそらく日本人が一番好きな西洋絵画って、印象派ですよね。
モネルノワールシスレージーらが始めたムーブメントで、マネピサロセザンヌなども加わって大きな流れとなっていきました。
でも「印象派ってどういう意味なの?」って人も多いと思います。
今回はその辺を書きましょう。

 

 

 

前にマンネリの語源の話をしたとき、西洋絵画はルネサンス期に一度完成されましたって書きました。

簡単に書くと「リアルに描く」というのが常識となったのです。
聖書や神話の場面とか、王侯貴族の肖像画とか、意味が込められている静物画とかを、「見たまんま」に「ちょっと盛って」描く(理想化)っていうことです。
日本や中国と違って輪郭線はなく、色のグラデーションで形を表し、映画のポスターっぽく絵的にまとまった感じに仕上げるのが西洋絵画の王道なのです。
その後色々なムーブメントはありましたけど、基本は変わりません。

 

西洋絵画って長い間、アトリエの中で製作が行われてきました。
その主な理由は、絵の具を自分で作らないといけなかったからです。
顔料とテレピン油などを混ぜて絵の具を作り、そして塗る。
こういう作業を屋外でするのは難しいことです。

 

それからヨーロッパでは、純粋な風景画って描かれてきませんでした。
ヨーロッパでは長い間、そこにある風景をそのまま描くことに何の意味も価値もないと思われていたからです。
(あるとしたら何らかの有名な場所を描いた歴史風景画くらいなもの)
風景なんて外でスケッチしてきて、アトリエで絵の背景に使うものだったのです。

 

その後だいぶ後になって風景画はあちこちで段々と描かれるようになって、バルビゾン派コローたちが一ジャンルとして確立させます。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 「モルトフォンテーヌの思い出」

19世紀になって自然主義が広まり、上に書いた従来の風景画じゃダメだ、風景のそのままの良さをきちんと描こうという流れができた結果です。
(オランダでは早くから風景画が描かれていたがメインは空だった)

 

イギリスでは産業革命が起き、人々の暮らしに余裕ができて旅行が流行りました。
すると、行ってみたい土地・行ってきた土地の風景を見るための絵ハガキ的な風景画が売れるようになります。
芸術後進国だったイギリスでの絵画の大流行で、ターナーなどが活躍しました。
写実的な風景画が多かった中で、ターナーは自分自身が見たときの印象を強調した絵を描いていきました。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」

 

そんな中、絵の上手だったモネ少年は画家のブーダン(父親が文具商)と出会い(1958年)、最新式のチューブ入り絵の具を使って屋外で風景画を描くことを教えられます。
絵の具はメーカーが作ったものをチューブから出すだけでよく、どこでも描けるようになりました。
翌年パリに出たモネは、上に書いた画家たちと出会い、新しい絵画を作っていきます。
屋外で風景を見ながら、その光、色、移り変わりを一枚の絵で表現しようとしていました。
そこには聖書も神話も王侯貴族もありません。

クロード・モネ 「サン=タドレスのテラス」

 

モネたちはスキャンダルになったマネの絵や、バルビゾン派の農村の風景画にも影響を受けています。

エドゥアール・マネ 「草上の昼食」

 

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 「フォンテーヌブローの森の眺め」

 

モネたちの発明の一つが筆触分割(ひっしょくぶんかつ)で、これは自然の明るさを表現するための手法です。
絵の具は混ぜると暗くなってしまうので、できれば混ぜたくない。
そこで混ぜないでキャンバスに散らしてしまったのです。
例えば植物の緑を描くとして、青・黄・黒などを点々と散らして、離れて見たときに緑に見えればいいという手法です。
(これがのちの新印象派の点描に繋がっていく)
また従来の薄塗りを繰り返して筆跡を消す手法ではなく、敢えて筆跡を残したりもしました。
写真のようにリアルに描くのではなく、絵を見た人に目の前にある風景の印象を感じてもらうための創意工夫ですね。

クロード・モネ 「ラ・グルヌイエール」

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール 「ラ・グルヌイエール」

 

1870年に普仏戦争が起こり、ルノワールやバジールは兵役につき、モネとピサロはイギリスへ逃れます。
(バジールは戦死する)
このときにモネとピサロターナーたちの描いた風景画を見て影響を受けました。
そして帰国後に仲間たちと、自分達の新しい絵画を発表する場を設けます。
パリでは従来の絵画がもてはやされ、モネ達の描く風景画は理解されずサロンに入選することもできず、自分達で発表の場を作ったのです。
これが有名な第一回印象派(正式には「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」、1874年4月15日から1ヶ月間)です。

 

モネは「印象・日の出」などの絵画を出品しました。
この絵画のタイトルは元々は「日の出」だったらしいです。
ルノワールの弟のエドモンがカタログを作ったのですけど、

エ「モネさん、この絵のタイトル『日の出』は短すぎませんか?」

モ「なら『印象』を頭に付けてくれ」

こういう会話があったとか。

クロード・モネ 「印象・日の出」

我々が今この絵を見ると、港の朝もやの中の日の出の印象がよく分かると思います。
でも当時のパリの人々にはまったく理解されず酷評されてしまったのです。
そしてこの絵のタイトルから、印象派展に出品した画家たちは「印象派」と呼ばれるようになりました。

 

 

 

こうして印象派は生まれ、画家たちは次々に新しい作品を描いていきました。
ルネサンスから何百年も続いてきた絵画の技法とはまったく違ったものが、19世紀に出現したのです。
はじめは批判していた人たちもやがて印象派絵画を受け入れ、周囲の画家たちも新しい絵画に影響を受け、自分たちの新しい絵画を生み出していきました。
印象派はまさに、西洋絵画の革命だったのです。
(我々が学校で画板と画材を持って屋外で描いていた風景画も印象派と言える)

 

ちなみにマネは印象派にカテゴライズされますけど、実は印象派とは技法がまったく異なります。
マネはルネサンス期の巨匠たちの作品が大好きで、それを自分流にアレンジして描いていたため、モネたちとはまったく違う方向性だったのです。
当時マネと同じような絵を描いた画家はいなくて、マネは一人だけでマネ派だったというのが正しい捉え方でしょう。

 

 


 

 

今回この記事を書きながら、Spotifyの古いプレイリストをかけていたのですが。
古い曲も久しぶりに聴くと新鮮に感じますね。

亡くなられた大瀧詠一さんの「1969年のドラッグレース」です。
カッコいいなぁ!

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。