スプーキーじいさんって何考えてるの!?

貧乏・暇なし・不健康。一人暮らしのじいさんのブログです。このブログに広告とか金儲けは入っていません。

上野の美術館に歴史あり

2016年に世界文化遺産に登録された、上野にある西美(せいび)こと国立西洋美術館

JR上野駅の公園口から正面方向、上野公園の噴水の広場や動物園へ向かって歩くとすぐ右側にある、緑がかったグレーの長方形のコンクリートの建物が西美です。
よく見ると敷地内には、ロダンの『考える人』とか『地獄の門』なんかが置いてあるのも分かります。
東京のアートファンにはお馴染みですね。
この西美って、ただの美術館じゃないのです。
今回はその西美についての長~いお話を。

 

 

 

慶応元年(1865年)生まれの松方幸次郎(まつかたこうじろう)は、実業家で政治家で大金持ちでした。

日本とアメリカの大学で学び、川崎造船所などの多くの会社の社長や役員を務め、第一次世界大戦のときには世界的な輸送船の需要増を見込んで、注文を受けてから船を作るのではなくレディメイドの船を売り込む「ストックボート方式」で大儲け。
(普通は受注生産、輸送船とかって大体似たようなデザインだからできたことでしょう)
仕事でヨーロッパへ行ったときに、50代にして突然美術に目覚め、イギリスのフランク・ブラングィンやフランスのレオンス・ベネディットの協力を得て、作品を買い集めます。
(ブラングィンのポスターが気に入ったところからスタートした)

 

松方はモネの作品も多数買いました。
ベネディットの橋渡しでジヴェルニーのモネ家を訪れ、モネの大好きな百年物のブランデーを手土産にし、いきなり18点の作品の買取を依頼します。

モネ「そんなに私の作品が好きなのか」

モネは松方の買取に応じました。
モネは気に入った作品は売らずに自宅に飾っていて、その作品の買取に成功したということです。

 

こうして松方は、たった十年間で三千点を超える作品を集めます。
個人のコレクションとしては驚異的な規模です。
しかも特定のジャンルに偏ることなく、まんべんなく集めている点も凄いのです。
(パリで購入した浮世絵八千点超も含めると、総数一万点を遥かに超える)

クロード・モネ 「睡蓮」

松方の構想としては、コレクションを自分一人で楽しむわけではなく、東京・麻布に共楽美術館というものを建てて広く国民に見てもらい、西洋を知ってもらいたいというものがありました。
(実際に太平洋戦争の頃まで麻布に予定地を用意していた)
また、習作やスケッチもコレクションし、日本の画家たちの勉強に役立てようともしていました。

 

ところが、日本では関東大震災(1923年)が起こり、国は財政難を乗り切るために贅沢品に高い関税(十割関税)をかけるようになります。
松方コレクションは日本に持ち込むことができなくなり、ロンドンに九千点、パリに四千点が置かれます。
ここが松方コレクションの頂点でしょうね。
そして世界恐慌が起こって、松方の会社は多額の負債を抱え、既に日本に持ち込んでいたコレクションを売りに出します。
不景気故にまとめて買う買い手は現れず、コレクションは散逸します。
買い手の一人はブリジストンの創業者の石橋正二郎です。
(石橋が購入した作品はアーティゾン美術館にある)
(石橋は他の記事にも登場予定)
(浮世絵だけは皇室経由で東博こと東京国立博物館にまとめて渡った)

 

ロンドンの倉庫(パンテクニコン倉庫)に九千点が保管されていましたが、1939年の火災で全滅。
一体どれだけの美術品が失われたことでしょう……
ヨーロッパではナチス・ドイツがフランスに侵攻してきて、パリにいた秘書の日置釭三郎(ひおきこうざぶろう、元海軍大尉)は夫人と共にコレクションを郊外の町に移して隠します。
松方からは「もしもの時は絵を売ってよい」と言われていて、日本からの送金が止まっていた日置夫妻の生活はかなり厳しかったのですが、泣く泣く売ったのはたったの二枚。
絵を全部売って逃げたって、日置は責められなかったでしょうに。
(その内の一枚がベルン美術館にあるマネの『嵐の海』です)

 

第二次大戦が終わり(1945年)、松方コレクションはフランス政府によって敵国資産として取り上げられてしまいます。
松方は1950年に84歳で死去、フランスからコレクションが返還される日に備えて、受け取りにサインをする練習をしていたとか。
サンフランシスコ講和会議(1951年)のときに吉田茂首相はフランスの外務大臣に返還を要求して、話が動き始めます。
本来は松方コレクションは個人の資産であり、敵国資産にはあたらないのですが(例外規定)、フランス政府は渋ります。
結局、

ゴッホやゴーガンなどの美味しいところ20点は返しません

・コレクションのための美術館を建てなさい(散逸防止のため)

・輸送費用は日本が出しなさい

ロダンの作品の鋳造費は日本が出しなさい

こういった条件を飲まされて、日本に370点の美術品が返されることになりました。
でもフランス側はあくまで「寄贈」と言い張り、西美では「寄贈返還」という微妙な表現をしています。
日本人からしたら「フランスって嫌な国ね」ってなるけど、自国の貴重な文化財の流出を嫌がるのはどこの国でも同じこと、でもちょっとね……

 

さて、松方コレクションを展示・保管するための美術館を建てないといけませんが、戦後数年の日本でその費用は中々工面できませんでした。
1953年に文部省は美術館の建設費用として一億五千万円の予算を要求しましたが、認められたのは五百万円だけ。
それで政財界の人たちが立ち上がって、建設費用を寄付で集め始めます。
でも順調には集まらず、苦肉の策として当時活躍していた国内のアーティストたちに協力を要請、大口の寄付に対して彼等の作品をプレゼントするという作戦です。
この作戦には若手アーティストを中心に猛批判が起こります、「芸術を金で売るのか!」と。
そんな空気を一変させたのは、洋画家の安井曾太郎(やすいそうたろう、安井賞の安井さん)の一言でした。

このコレクションが戻ってきて一番恩恵を受けるのは誰か。われわれ美術家ではないか!

正に、鶴の一声。

安井曾太郎 「金蓉(きんよう)」

こうして寄付は集まり、補正予算も付き、建設が実現します。

 

美術館の建設地は、上野公園内にあったお寺さんの敷地と決定。
巨匠のル・コルビュジエに設計を依頼、ル・コルビュジエは上野の予定地周辺を三日間散策し、後は京都・奈良へ観光旅行へ行ってしまいます。

帰国したル・コルビュジエは、日本にいる日本人の弟子たちに実施計画案を送ってきました。
これを元に、前川國男・坂倉準三・吉阪隆正の三人が実施設計を行い、ついに美術館は完成します。
それが国立西洋美術館なのです。
ル・コルビュジエの案より全体の規模は縮小されている)
(この実施計画案から省かれたホールは、後に前川國男上野駅前に東京文化会館として建設し実現している)
1959年には船便で松方コレクションが戻ってきて、無事に西美に搬入されました。
6月13日からの一般公開は、連日大盛況だったそうです。

 

 

 

今回も長く長くなりましたが、西美がただの美術館ではないということがお分かり頂けたと思います。
私は何回も行っていますけど、正直建物としてはそれほど好きな美術館ではありません。
設計が独特で、同じ展示室でも天井の高さが違っていたりして、上からの圧迫感があるからです。
美術館なんて普通でいいんですよね、天井の高い広ーい展示室を作って、そこを展覧会毎に自由に仕切れば。
もし興味があるなら、チケットの高い企画展でなくても、常設展(大人¥500)で松方コレクションの一部は見られます。
企画展のない平日の朝から行くと(九時半開館)、比較的空いていていいと思います。

 

 

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。