スプーキーじいさんって何考えてるの!?

貧乏・暇なし・不健康。一人暮らしのじいさんのブログです。このブログに広告とか金儲けは入っていません。

小説 床屋さんの音楽

 私は派遣で働いています。仕事は半年間くらいのところが多く、勤務地もバラバラです。
 今月からは東京の郊外の街で働き始めました。その街は駅前は栄えていますが、ちょっと歩くと静かな住宅地というところです。駅から現場までは、二十分くらい歩いて通っています。

 

 私は同じことの繰り返しが嫌いで、それは通勤ルートにも言えて、いつも何パターンものルートを考えて試しています。今回も、最寄り駅と現場の間をどう歩こうか、色々と試しているところです。もし繰り返すとしたら、それは私が余程気に入ったことだけです。
 歩きだから道交法的な縛りはほぼなくて、細い道でも通れればOK。住宅街の中を、プライベート空間を侵犯することだけは避けて歩いていると、色々な発見があって面白いのです。

 

 ある日の帰り道、夏の暑さにやられながら歩いていると、初めての道に床屋さんがありました。昔はどこの街にもあった、庶民的な床屋さんです。おそらく数十年間、ここで営業しているのでしょう。
 私は坊主頭なので、普段は駅周辺の安い床屋でカットのみでお願いしています。髭や襟足や眉毛は自分で剃れば安く済みます。ただそういうお店って混むのです。安いから仕方がないことですけど、仕事帰りに数十分間待たされるのは結構辛いものがあります。だから私は、翌日を気にしない金曜日の帰りにしか床屋へは行きません。

 

 発見した床屋さんの店内を見ると、お客さんは一人もいません。高齢の男性が白衣を着て新聞を読んでいます。
 飲食店も同じで、古くて庶民的なお店を見つけて初めて入るときの緊張感が私は好きなのです。この床屋さんもなんかいいなと思い、えいやっと入ってみました。
 「こんちはー」なんて言いながらお店に入ると、店主が顔を上げて「らっしゃい」なんて返しました。下町っぽいのです。
 まず、暇そうでした。かつては賑わっていたのでしょうけど、今は店主は年金生活をしながら、辞める理由もないのでお店を開けているだけ、そんな感じでした。
 店内は涼しく、古めかしいけど散らかっているわけではなく、無駄に物が置いてあったりはしません。ラジオがかかっていて、私は荷物をソファーに置きました。他のお客さんが入ってくる気配はなかったです。

 

 店主に、お馴染みのカーク船長が座ってそうな椅子(バーバーチェアというらしい)に誘導されて座りました。
「どうしましょう?」
「3ミリの丸刈りで」
 店主はすぐに作業を始めました。
 床屋さんというのは美容院と違って、手順が厳格に決められています。いつ誰が決めたのか知りませんけど、どこの床屋さんへ行っても同じなのです。髪のオーダーにしても同じで、3ミリというのは床屋さんで可能な一番短い長さ(スキンヘッドを除く)で、丸刈りは単純に全体を同じ長さで切るというオーダー、これだけであらゆる床屋さんが了解してくれて、同じ手順で進んでいきます。

 

 

 早速バリカンで髪を刈られながら、ちょっと失敗したかなと思いました。
 「(そういえば『カットのみで』って指定しなかったな……)」
 私は余裕がないのでカットのみで安く済ませようと思っていましたが、おそらくこのお店では黙っていたらカットとシャンプーと顔そりのフルコースになってしまうでしょう。カットのみなら千円台だろうけど、こういう古風な床屋さんだとフルコースは三千円台かもしれません。
 こういうときにハッキリ言えないのが私の悪いところで、しかも安いほうへの調整だと恥ずかしい(見栄っ張り)ということもあります。
 それから、手持ちの現金が心配になりました。キャッシュレス決済が可能ならまだしも、そういうお店ではなさそうです。財布の中に千円札が何枚入っていたか、キャッシュレスが当たり前の今、私の記憶にないのが不安でした。

 

 店主の仕事はアッサリでした。不足はないですけど、無駄におしゃべりもせずサッサと作業を進めていく感じが他とちょっと違いました。まぁ坊主頭なので、余程下手に刈られない限り困りはしませんけど。
 店主の作業が進む中で私は目を閉じていたのですが、作業の合間にそれまで鳴っていたラジオが消されました。夕方の情報番組をやっていたようでしたが、途中で突然無音になったのです。
「(あれれ、どうしたのかな?)」
 そう思っていると、音楽が流れ始めました。ムード音楽でした。

 

 若い人は知らないかもしれません、ムード音楽というのはイージーリスニングのことです(それも知らないか)。よくお店でBGMとして流される、ボーカルのないリラックスした音楽で、昔は流行っていたのです。
 パーシー・フェイス、レイモン・ルフェーブル、ポール・モーリアリチャード・クレイダーマン……、懐かしいです。
 そうか、おそらくここの店主は営業中はいつもムード音楽を流していたのでしょう。今日はお店が暇なのでラジオを聴いていて、そこへ珍しくお客が来て、音楽に切り替えるのを忘れていたのでしょうね。
 それを忘れたままにしないで、途中で思い出して音楽へ切り替えてくれた、その気持ちを私は勝手に有り難く思いました。高齢になってもおもてなしの精神を忘れていないベテランへのリスペクトも感じました。
 もう、ちょっとくらい出費したっていいじゃん。お金が足りなかったら、コンビニまで走って行って下ろしてくればいいじゃん。私の心はすっかりほぐれて、全身の力が抜けていくようでした。
 冷房の効いた店内で私はその後も、ムード音楽を聴きながらシャンプーや顔そりをしてもらって、とても心地よかったです。

 

 私は順番待ちすることもなく、カット・シャンプー・顔剃りのフルコースをやってもらい、最後に謎の整髪料を付けてもらって(坊主頭で必要だろうか?)、入店してからここまでを普段ないくらい早く済ませました。
「おいくらですか?」
「千八百円です」
 思わず「安っ」と言ってしまいました。私は財布にかろうじて入っていた千円札二枚を出してお釣りを受取りました。千八百円ならカットのみのお店とそれほど変わらないので助かりました。

 

 「お世話様でしたー」と私がお店を出ようとしたとき、予想もしていなかったことですが、店主がドアを開けてくれたのです。こんなサービスをされたのも久しぶりのことで、嬉しいサプライズでした。下町の床屋さん、侮りがたし。
 短い時間ながらリラックスできて、首から上はサッパリして、謎の整髪料の未知の香りを嗅ぎながら、私は駅へと向かっていきました。いいお店でした、また行こうと思います。

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。