たまにはアートのことを書きますかね。
今回はアートファンならご存知だと思いますが、ある悪女の話です。
ほんと、引くほど悪い女がいたんですよ~。
(なぁ~にぃ~!(後略))
昔々、あるお金持ちが収集した絵画のコレクションがオランジェリー美術館に寄贈されました。
このコレクションを最初に作ったのは、ポール・ギヨーム(1891年~1934年)という方です。
(それにつけても、オランジェリー美術館にあるモネの睡蓮の部屋には是非行ってみたいものです)
ギヨームは自動車工でしたが、アフリカから輸入したタイヤの原料のゴムに紛れていた、アフリカの仮面が彼の運命を変えました。
ギヨームは仮面のデザインを面白がり、工場の入り口の上に飾ったのです。
ある日、たまたまそこを通りがかったアポリネール(1880年~1918年)が興味を持ち、ギヨームに、
「あれは何だい?」
と声をかけ、
「あれはいいものだ、高く売れるぜ」
と入れ知恵しました。
(アポリネールは二十世紀初頭にフランスで活躍した、文学界や美術界の重鎮。ピカソやローランサンを応援し、「シュールレアリスム」という言葉も彼が作った)
(ポール・ギヨーム(Paul Guillaume)とギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire)……紛らわしい(笑))
それで、ギヨームは工場をやめてアフリカの民芸品を輸入して、ギャラリーをはじめます。
ギヨームははじめ、アフリカの民芸品をあちこちに持っていって売っていました。
特に若い画家達はそれに高い関心を示したもののお金がないため、代金の代わりに自分の絵を差し出して、それがギヨームのコレクションのはじまりとなります。
その画家たちの中の一人が、モディリアーニ(1884年~1920年)でした。
この絵を描いたモディリアーニもそうですけど、当時のパリじゃあアフリカ美術に対する関心が高まっていて、そのキッカケの一つはギヨームだったのです。
(それにしても一体誰がゴムの箱の中に仮面なんて入れたのか、その理由は?)
ここに登場するのが、ジュリエット・ラカーズ(1889年~1977年)という女性です。
田舎育ちの彼女は1919年にパリに来て、最初はデパートの手袋売り場で売り子をしていたようですが、やがてモンパルナスのナイトクラブ、ル・バイキングでクローク係をするようになります。
ここで彼女は、ギヨームと出会うのです。
二人は恋仲になり、ギヨームは彼女に「ドメニカ」という愛称を付けて、翌年結婚しました。
ギヨームはモディリアーニやピカソなどと仲良くなり、二十世紀初頭の最先端アートを理解していました。
若いアーティストを支援したり、彼等の作品を買い取ったりしながら、アフリカの民芸品だけではなく絵画の売買でも成功していきます。
もちろんアポリネールとの付き合いも続いていて、彼の支援なしにはこの成功はなかったでしょう。
やがてバーンズコレクションのアルバート・C・バーンズ(1872年~1951年)も彼のお客となり、商売は大成功!
高級アパルトマンに住み使用人を雇うような生活になります。
彼の元には、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての、いわゆる美味しい作品が集まりました。
絵画について無知だったドメニカも、ギヨームや周囲の人々から多くを教わっていきました。
ここまでは、トントン拍子。
ところが。
1929年に、世界大恐慌が起こってしまいます。
フランスは二年間程持ちこたえましたが、1931年には不景気の大波に飲まれていきました。
ギヨームの商売にも陰りが見え始めます。
この頃に、ドメニカはジャン・ヴァルテル(1883年~1957年)という男性と不倫していました。
ヴァルテルというのはモロッコの鉛の採掘事業で成功した大金持ちであり、パリでは有名な建築家でもあり、ギヨーム達の住んでいた高級アパルトマンも彼の設計です。
ギヨームは妻の不倫を知っていたようです。
そして。
ギヨームは1934年に42歳の若さで亡くなってしまいます。
その死因は、急性虫垂炎(盲腸)をこじらせて腹膜炎と敗血症になったからと言われています。
お金持ちが、盲腸をこじらせるまで病院に行かないとは、おかしなこともあるものです。
(ドメニカは「病院に連れていくのが遅れた」と証言している)
ギヨームは遺書を残していました。
そこには、自分に子供がいないまま死んだときには、自分の全コレクションをルクセンブルク美術館に遺贈すると書かれていました。
ということは、大切なコレクションが美術館に行ってしまう!
これじゃいかんと思ったのかどうか、ドメニカは自分が妊娠していることを公表して、しばらく姿を消します。
(姿を消す直前に、服の下の腹部にクッションを入れて偽装工作をしたという噂もある)
しばらく経ってからドメニカは、ジャン=ピエールという子を連れて戻ってきて自分が産んだ子だと言いました。
どうです、怪しい事件の匂いがしませんか?
当時からこの一連の出来事は人々の関心を集め、色々な憶測が飛び交いました。
・ギヨームはドメニカに殺されたのではないか?
・ジャン=ピエールはお金持ちを相手にする人身売買の組織から買った子ではないか?
(後に養子縁組だと判明する)
・ギヨームの遺言状に「コレクションを国に寄贈する」と書いてあったのをドメニカが書き換えたのではないか?
・ジャン=ピエールを息子としたのは、実の子がいれば確実に相続を受けることができると考えたからでは?
などなど。
それでも結局、ギヨームのコレクションはドメニカの手に渡りました。
その後ドメニカはヴァルテルと再婚します。
そしてドメニカは、ギヨームのコレクションを自分好みに変えていきました。
彼女は前衛的な作品は好きではなく、印象派などの保守的な作品を好みました。
だから、ピカソのキュビズムの作品なんかは売ってしまい、モネの風景画などを買っていきます。
ドメニカがコレクションをいじったのが、良かったのか悪かったのか……
そんなドメニカには、1950年代に入ってまた愛人ができます。
医師のモーリス・ラクールという男で、これがまた怪しいのです。
そして悲しいことに、また事件が起きてしまいました。
1957年に、ドメニカとヴァルテルが郊外のレストランで昼食をとった後、ヴァルテルが外へ出たところで車にはねられてしまいます。
周りにいた人々は救急車を呼ぼうとしたのに、ドメニカはラクールの車で病院に連れていくと言い張り、病院に到着したときにはヴァルテルは既に亡くなっていたのです……
(何故救急車を呼ばなかったのか……?)
そしてヴァルテルの所有していたモロッコの鉛採掘事業は、ドメニカの兄の手に渡ります。
もう、臭いなんてもんじゃないでしょ。
ドメニカの立場に立ってみれば、ここまで来たらジャン=ピエールなんていらないわけで、そのためにドメニカ一味(笑)は暴走していきます。
(ドメニカはジャン=ピエールを常に疎ましく思っていたようだ)
(ジャン=ピエールはヴァルテルにだけは懐いていた)
1958年のある日、ジャン=ピエールはレイヨン少佐と名乗る男から、
「私はラクールから君を殺すように依頼されてきた」
と突然言われたりして(怖っ!)、結局ラクールは殺人未遂の罪で逮捕。
ドメニカの兄は娼婦をジャン=ピエールに接近させ、彼が「売春業で儲けている」と偽の噂を広めようとして失敗(娼婦が真相をバラした)、兄も逮捕。
それでもドメニカは記者会見を開き、
「ジャン=ピエールこそが私の命を狙っている!」
と言い出す始末。
この頃のパリを大いに騒がせたのでした。
その後ドメニカは文化大臣と秘密の取引をしたと噂されて、そして実際に起きたことは、
・ドメニカの死後、コレクションはオランジェリー美術館に寄贈する契約が交わされた
・ラクール博士と兄は釈放された
・事件を担当していた検事は出世した
の三つなのですが、噂を裏付ける証拠は見つかりませんでした。
ジャン=ピエールはその後、アメリカに逃げていきました。
ところがある日、ドメニカが会いたがっているという話を人づてに聞き、なぜか彼はドメニカに会いに行ってしまいます。
何の話かと思い会ってみると、ドメニカが言ったのは
「お金を払うから養子縁組を解消してほしい」
というお願いでした……
可愛そうなジャン=ピエール!
彼はその申し出を断り、アメリカに帰り、ドメニカとは二度と会うことはなかったそうです。
(後にドキュメンタリーに出演して一連の事件について証言している)
ドメニカは、オランジェリー美術館に寄付されることになった自身のコレクションに、「ジャン・ヴァルテル & ポール・ギヨーム コレクション」と名付けます。
ほとんどギヨームが集めたコレクションなのに、なぜかヴァルテルの名が前に付いています。
その理由は、よく分かっていません。
2019年にヨコビこと横浜美術館で開催された「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」。
十九世紀末のフランスの名画(印象派からエコール・ド・パリまで)が多数見られて、私もできれば行きたかった展覧会です。
実はこれが上述の「ジャン・ヴァルテル & ポール・ギヨーム コレクション」の一部(約半分)だったのです。
ドメニカは1977年に、88歳で亡くなりました。
世間から「雌カマキリ」と呼ばれた女性の壮絶な人生。
(「カマキリの共食い」はご存知ですね?)
彼女こそ真の「ファム・ファタール(魔性の女)」です。
このドメニカの人生を見ていると、つくづく「恥を知る」って大事なことなんだと思わされます。
悪女って怖い、というお話でした、お粗末。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。